そもそもリニューアル(変わる)ことを扱うことが、
問題なのだ。
何故ならムービーは、時間軸を持つからである。
ポスターならば、リニューアルとデカデカと書いたり、
お洒落に書くといい。「変わる」という点を表現する。
しかし、ムービーは時間軸を持つ線である。
「何から」「何へ」変わるのかが必要なのだ。
つまりこの話の根本の問題は、
線で描く、ストーリーというジャンルに、
点の落ちを持ってきた、
無知にあるのである。
物語は線である。
変化を描く場合、変化前と変化後が必要だ。
そしてそれは、
物が落ちるとか、氷が溶けるとかの、
自然に起こった変化では意味がなく、
「意図的に何かをしたこと」に意味がある。
その結果、変化が現れるのだ。
我々は、変化後を見て、
その意図を読み取る。
これが物語の根本である。
ところが、この無知で未熟なクリエイターは、
変わること、という点を持ってきてしまった。
それが間違いの大元なのだ。
僕は以前服屋さんのCMを作ったことがある。
そこで初めて知ってびっくりしたのが、
服屋さんは、クリエイター集団ではなく、流通屋さんであるということだ。
自社ブランドを作らない場合、
彼らは、他のブランドの服を買い入れて、並べて、売り子に売らせるのが主な仕事だ。
どのブランドのどの服をどれだけ仕入れるかは、
バイヤーという一部のエリートが決める。
それ以外の人は、納品管理をする、
流通屋さんが主な仕事なのだ。
スーパーや八百屋や魚屋と、たいして仕事は変わらないのだ。
(魚屋は、一人でバイヤーから売り子までやるだろうけど)
流通屋さんが、店舗リニューアルをすることは、
実は流通屋さんにとって、はじめてものづくりをすることだ。
僕は服屋さんはクリエイターだと勘違いしていたが、
流通屋さんがものづくりをすることは滅多にない。
店舗リニューアルぐらいしか、ものづくりはしない。
だから、僕は服屋さんはクリエイターとして素人なのだ、
ということに、はじめて気づいた。
さて、ルミネも恐らくそうだろう。
自社ブランド開発をしてるだろうけど、
メインは流通屋さんだろう。
だから、「変わる」ことを、点でしかとらえられないのだ。
もっと言えば、店舗リニューアルなんて、
在庫一掃して、付き合いのあるブランドを入れ換える、
流通屋さんの異動でしかないだろう。
それぞれの微調整であり、
「何から」「何へ」変わるのかを、
一言でコンセプチュアルに表すことなど出来ないだろう。
だから、「変わる」としか、
一言で言えない筈である。
だから、点でしか言えず、
線で描く物語とは、真逆の性質をもつことになる。
対策はふたつ。
ひとつは、線で描くことの出来るように、
「何から」「何へ」の変化であるかを、
ちゃんと描く。
ルミネがどう変わるかを、隅々まで調べあげて反映するか、
あるいはそれらを包括する新しい価値を、でっち上げることで。
(これはブランドメッセージを決めることである。
学級会を思い出せば分かるが、日本人は多数の場合、
明確な意思を決めることの出来ない、玉虫色の民族である。
一方、ブランドメッセージとは、一点を言わなくてはならない。
だから、日本の企業はブランドメッセージを言うのが苦手だ。
表現とは、あることを言うことで、あることを捨てることだ。
日本人は各方面にいい顔をしたいので、捨てることを躊躇う)
もうひとつは、線を諦めて、
点でしか言わないことである。
今の流行りのやり方なら、モーフィングの面白映像集でもつくることだな。
それを、中途半端にやったから、
中途半端な物語になった。
変化前はあった。
「変わる」という動詞はあり、
きっかけの動機もあった。
しかし変化後は明示されていない。
「変わる」という点が結論だからだ。
我々は物語を見させられているから、
自動的に変化後を想像する。
変化前と動機を示されれば、
自動的に、変化後は「需要のある自分になったこと」だ。
それがセクハラ(型にはまりすぎ)だと言われているのだ。
線で描くべきジャンルに、点を持ち込んだことが、
失敗の原因だ。
知らなかったのなら未熟だ。
知っていてミスしたのなら未熟だ。
これだけ丁寧に言っても分からないなら、さらに未熟だ。
昨今のCMは、
ストーリーテラーじゃない人が、
ストーリーに点を持ち込んで、
ストーリーを語った気になっているものが散見される。
俺が鼻で笑っている、ペプシ桃太郎もである。
素人が増えた。
悪貨は良貨を駆逐する。
無知がはびこり、文化は滅ぶ。
2015年03月22日
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