何故なら、それは点だからだ。
ヒーローが超能力で活躍するのが見たい。
ヒロインのパンチラや胸キュンが見たい。
すげえ悪が見たい。
イケメンが何か努力して汗を流す姿が見たい。
ヒロインが女友達とがんばろうねっと言ってるのが見たい。
病んでるけど愛してるみたいなのが見たい。
○○が○○してるシチュエーション好き、
ワクワクドキドキが見たい。
すげえってなるのが見たい。
どんでん返しが見たい。
絶望が見たい。
これらを創作の動機にしたり、
目標にするのは誤りである。
あなたが観客であれば、それを見たいというのは自由だ。
しかしあなたがストーリーの作り手ならば、
それを見たいというのは、誤りである。
何故なら、これらは点のことを言っているからである。
あなたが絵描きならば、その絵を描くことが出来る。
しかしあなたがストーリーテラーなら、
点を考えることは、無意味だ。
物語は線である。
あることからあることへの動詞である。
その動詞の目的のことである。
それらがどう絡み合うかを、線で(複数の線の軌跡で)書くのが物語である。
そのどこかの場面に、見たい点を持ち込むのは構わない。
しかし、必然性がなければならない。
理由もなく女優はヌードにならない。
しかし必然性があれば脱ぐ。
ヌードという点ではなく、線の中の点で裸になるだけである。
もし見たい点があるなら、
それを線の中に点として入れ込むのはやぶさかではない。
あなただけでなく、誰もが見たい点はたくさんある。
問題は、点に必然性がなく、線になっていないことだ。
ストーリーという線には、線の性質がある。
変化前と変化後が必要なこと。
それは動詞であること。
それはテーマを間接的に示すこと。
動詞は何段階かに分割され、
それぞれの結節点をターニングポイントと呼ぶこと。
それらが面白いときに限って、
その必然性での点を面白く見ることが出来るのだ。
たとえば、ドラマ風魔の小次郎の最終決戦、
スローで風の中歩いてくる五人は、
みんなが見たかった点である。
しかし、第一話やみんなが集まった三話あたりでやっても駄目だ。
これまでのことがあるからこそ、
この点が引き立ち、そして燃えるのだ。
つまり点は、線の中の点だから意味がある。
ストーリーをつくるということは、
線を一本引くことであり、点を打つことではない。
点をいくら集めても、数学的には線にはならない。
ひとつ次元をあげなければならない。
点ばかりを思いつき、それを繋ぐ一本の線をつくる方法は、
合理的ではない。
不自然で無理矢理になるからだ。
自然で面白い線を一本書き、
すでに並べた、見たい沢山の点の場面から、
その線上に行けそうなやつをチョイスするのが、
正しいやり方だ。
(そして無理にこの場面も、と欲張って崩れて行く)
物語は線である。その意味を本当に分かるまでは、結構かかると思う。
2015年03月22日
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