2015年03月23日

世界に振り回されることと、制御しようとすること2

僕はハリウッドやヨーロッパの物語論に、
ずっと馴染めない単語がある。

「障害」だ。


よく西洋人は、
自然を敵とみなし、それを制御することで自然を開拓してきたと言われる。
数々現れる困難、たとえば大型獣や、沼地や、疫病。
仲間割れや奴隷の脱走や原住民との戦争。
それらの障害を乗り越えて、征服すること。

彼らのイメージには、
人生とは、人間というのはそのようなものだ、
という考え方があるような気がする。

だから彼らにとっての物語論は、
障害物競争である。

ラッセル車のように、数々の困難をはねのけて、
自分の目指すゴールへたどり着くようなもの。

アメフトがアメリカ人に人気なのもよく分かる。
彼らにとっての、人生とは、人間とは、
という感覚を端的に示したスポーツなのだ。


シド・フィールドは4つの障害だというし、
ブレイク・シュナイダーは、
お楽しみポイントや、かりそめの勝利や、迫り来る敵や死の予感、
などのように言う。

人間は、目的をもち、障害を越えることがストーリーなのだと。



しかし、毎日肉食ってるような、
こんなハイカロリーな人種では、我々はない。

それがストーリーだ、と断言することに、
日本人である我々はとても違和感がある。
ハリウッド映画の油っこさに時折辟易し、
さっぱりした和食のようなストーリーだってストーリーだろうと。

ずっと以前から、そこに違和感を感じていた。
ハリウッドの物語論が全てではないだろうと。

一方、日本の物語論はなんだか抽象的で、
書く人の立場に立っていないのが多かった。
(小説の入門書というのがあるのを僕は知らなくて、
最近そういう名著があることを知る。
僕の興味は映画や漫画なので、そこが抜け落ちていたのだな)

名著と言われる新井一のシナリオの本は、
分析には役立つかも知れないが、実用には向かない。
彼のどや顔はよく見えるが、書くための蒙をひらいたり、
どうすればいいか分からないときの助けにはなってくれない。

結局役に立ったのは、
脚本論が盛んなハリウッドの翻訳や、
ヨーロッパの神話論だ。


だがいつも思うのだ。
人間はそんなにラッセル車のように、
アクティブで、アメリカンヒーローのようにいられるかと。
(勿論、結果的に英雄的であることで、新しい英雄の一員になることはある。
ロッキーやランボーは、そうやって新しいアメリカンヒーローになった)

個人的に闘う主人公はよくいる。
それが英雄的であることとは、いつも関係ないような気がしていたのだ。
結果的に英雄的であることとは、やぶさかではないのだが。

勿論、ヒーローになろうとしてヒーローになる話は、
それほど多くはない。
しかし、なんだかUSA万歳!みたいな流れしかないのだろうか、
と、ずっと疑問だったからだ。


例えばハリウッドの脚本論では、ガンダムやナウシカを上手く説明出来ない。
それが、ハリウッドの理想形に足りないからといって、
ストーリーとして不完全や未完成だとは、とても思えない。

だからハリウッドの脚本論は、
世界の全てのストーリーを説明し構築できる理論なのではなく、
ハリウッド映画的なストーリーの構築法なのだと、
薄々感じてはいた。


だから、ハリウッドの理論を利用することはあっても、
我々日本人は、独自の、ストーリーとは何か、
それはどうやったら書けるのか、
を構築すべきだとは考えていた。

残念ながら現状いいものはなくて、
多分みんな、それぞれを使い分けながら、
あとは名作の分析や、身に付いたものや、
自分の直感に従って書いているのだと思う。

異物論(仮)を書いてみたのも、そう考えると、
ハリウッドの脚本論を脱却出来るのではないかと思ったからだ。



さて、
前の記事に書いたことは、
さらに別のバージョンの、
日本人に分かりやすい脚本論を示唆しているのではないかと思う。


主人公は世界に振り回される。
主人公は世界を制御しようとする。

この二つの相克が、ストーリーだと考えると分かりやすいような気がした。
世界とは、「人であったり組織であったり事件だったり、その世界にあるもの」をさす。


日本人は津波や地震など、
自然はしょうがないものとある程度諦めている。
また、変に作るよりも、自然の法則に従って生きることが何よりも大切だと、
無意識に思っている。

自然を改造したり征服したりする発想ではなく、
共生という考え方だ。それこそナウシカ的な。


もっと無意識に潜ると、
「人には、ベースとなる幸せな世界がある」と考える。
それは自然と調和し、人々も幸せな理想郷だ。
天国でもいいし、昔のよかった時代でもいいし、
今の俺のそこそこの生活でも構わない。

それが、自然のような人為的でない、何かに乱されることが、
ストーリーのはじまりで、
それに押し流されたり振り回されたりするのに対して、
主人公は世界を制御し、
幸せな自分の生活を取り戻そうとすることが、
ストーリーである、
と理解するとよいのではないか。

というのがこの論の骨子である。


異物論に構造は似ているが、
異物論ははじまりのことしか書いてなくて、
途中のことを書いてなかった。
なので、より強力な理論だと思っている。

名前をつけて、この論をしばらく考えてみようと思う。


「世界制御論」と、とりあえず命名してみる。
相変わらずネーミングセンスがないなあ。
posted by おおおかとしひこ at 14:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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