2015年03月25日

冒頭とは、結論の別の形である

冒頭に、既に結論が暗示されていること。
冒頭に結論を示し、結論で同じことを繰り返す(または言い換える)こと。

これは、全ての「人が言うこと」に共通する、
優れた型のひとつである。

この型に嵌まっている必然性はないが、
優れた話は、おそらく全てこの型に書き直せる。
(それがベストの表現形式かどうかは別の話)



物語とは、事件に出会った主人公が、
それを解決するまでを描く。

その解決過程で暗示されることが、
その物語のテーマだ。
悪が滅びれば、正義は勝つことを示す。
愛が実れば、愛は素晴らしいことを暗示する。
マイノリティが勝利すれば、
「全ての人に人権はあり、外見や偏見で差別するのは間違いだ」を暗示する。
(「Xメン」はミュータントと人類の共生がテーマだが、
監督ブライアン・シンガーの、ゲイへの思いが託され、
マイノリティ対マジョリティの話になっている)


テーマは大抵ラスト(付近)で示されるが、
実は冒頭でもやんわり示されるべきだ。

これは○○についての話である、と。

テーマとモチーフを混同しないこと。
ガンダムは、
モチーフがモビルスーツや戦争やニュータイプ
(描かれている具体物)であり、
そのテーマは、人がわかりあえる可能性があることだ。
(具体的に言わないことで読み取らせること、
結果的にそれを言ってることと同じになること)

これは○○についての話である、
というのは、モチーフのことでなく、
テーマのことについて話すと良い。

ガンダムのファーストカットは、
サイド7にトンビが飛び、隔壁が爆破されるカットだった。
わかりあえない、平和を乱すことを描くことで、
この話の結論を、逆から暗示している。
(あ、ファーストガンダム以外はガンダムじゃないです)



主人公が事件に出会う前、
主人公は日常生活を営んでいる。
そこに後に使う伏線や、世界の前提を描いておくのだった。
非日常のスペシャルワールドと対比されるべきことも。

その前に、ほんの一分や30秒だけ、
オープニングと呼ばれるパートがある。

優れた話は、ここでテーマを象徴するのである。


それはたった一文だったり、
ほんのワンカットであるかも知れないし、
小話かも知れない。

ちなみに「マグノリア」には、
「世の中にはどんな偶然があるか分からない」という、
この長い物語のテーマを象徴する、
三つのエピソードがある。
(これはそれぞれ面白いのだが、長すぎる)

オープニングの上手さで、語り手の技量がある程度わかるというのは、
本当だ。
上手なオープニングとは、
「これから語ることを全て知っている上で、
話の枕を前ふる」ことだからだ。


ガンダムのオープニングは、
戦争もの全てに可能なオープニングで、
ニュータイプの話もモビルスーツも出てこない。
ただし、サイド7という、
宇宙コロニーという舞台の特殊さだけを示す。

たったこのワンカットで、
戦争もの(戦いをモチーフにすることで、平和の尊さを描く)、
敵はひどいこと(ゲリラ戦法、わかりあえないだろう人達)、
平和な日常が失われたこと、
そして特殊なSFであることを、
示している。

上手い。
ジャンルと、気持ちと、テーマを象徴する。
たったワンカットでだ。


何故テーマを象徴するべきなのだろうか。

入り口のためだ。
道案内の看板と同じだ。
「この先○○あり」と、同じだ。
ただ○○をモロバレしては詰まらないから、
無意識に刷り込んで言語化出来ないレベルにとどめるのである。

つまり。
トップカットは、テーマの暗示である。
逆に、
優れたオープニングは、
全体が出来ていないと作ることが出来ない。


オープニングの役目は、
色々な文脈で生きているバラバラの観客たちを、
ひとつの結論に揃えるための、
入り口を作ることである。

「この話が終わったとき、自分は『○○は○○だ』と思う」と、
予感させるのである。

しかも、それが苦しゅうない、
むしろ、それが面白そうだ、
むしろ、それで満たしてくれ、
と無意識で感じられるようにだ。


それは一種の誘導だ。
オープニングは、テーマの誘導だ。
形を変えた結論なのだ。


謎を最初に出すのはその変形である。
その謎が解けたら、テーマが分かるからである。


勿論、そのテーマが古臭い場合、
魅力のないテーマの場合、
そのタイプのオープニングは魅力的にならないだろう。
中身が腐ってるからだ。
そういうときは別の面白いことで誤魔化すのが定番だ。


いわゆるツカミには二種類ある。

テーマと関係ないことで面白がらせるだけの空騒ぎ。
テーマを暗示し、バラバラの観客をひとつの方向に向けさせるための、
誘導。

後者を本当のツカミと呼び、
前者を偽物のツカミと呼ぶべきなのだが、
世間で両者は混同され、
むしろ前者だと誤解されているため、
僕はツカミという言葉が嫌いである。



また、映画のオープニングと、
連載漫画のオープニングは、役割が違う。

連載漫画は、開始時点でエンドが見えていない。
(ざっくり作ってその計画通りに進める人もいるけど)
しかも、アンケート方式によって路線変更を余儀なくされ、
本来のエンドに向かえない可能性もある。
(例えば「はじめの一歩」のオープニングは、
強いって何ですか?だった筈だが、それは連載の引き延ばしによって、
ぼやけてしまっている。宮田戦まで温存せざるを得ないのだが)

だから「とりあえず」ガツンとつかむことが連載漫画のオープニングである。
テーマと関係あるかどうかは、この際分からない。
だってテーマを描けるかどうかも分からないからだ。
連載漫画は、アンケート方式による打ちきりという、
唯一の最終回以外は、
無限に書かなければならない。
だから、少し先にある、サブテーマ的な結論に向けて、
仮テーマを設定せざるを得ないのだ。
(アンケート方式は、屑をふるい落とす方法ではあるが、
芽を育てる力はない。目が出たであろう才能を、
潰すことは出来ても、徐々に開花させることは出来ない。
アンケート方式でサバイバル可能なのは、
最初から死なない化け物の才能だけだ。
そしてその出現確率は、今下がっている。
僕はアンケート方式がベストとは思えない)

この漫画連載において、
ツカミということが重要視されたため、
ツカミへの誤解が広まっているように思える。
落語の枕は連載漫画の意味のツカミではない。
落ち(テーマ)に関する、誘導の伏線である。


随分前に、ペプシ桃太郎のプロットを書いて示したとき、
ツカミが弱いなんてコメントした人がいた。
それは刺激のインフレに浸かってしまった人の戯れ言だ。
それは違うよ、というまで、これだけの記事を書いてきたのだが。

刺激的な映像や、美しい人が、掴むのではない。
テーマが掴むのである。

あのプロットに関して言えば、
「自分より強いやつを倒せ」に関することで、
掴まなくてはいけないのだ。
それは、イマイチはっきりしない、
詰まらないテーマだからこそ、
結局はテーマと別のこと、例えば刺激的な映像を、
ツカミに求めてしまうのである。




あなたの書く物語のテーマは、
聞く価値のあるもの?

それをいくつかのバージョンで書いてみ?

暗示にうまくなれば、
たぶんそれが最もいいオープニングになる。


つまり、結論は冒頭に、ある意味で示されているのである。

(こうやって、この文も冒頭に戻るのです)
posted by おおおかとしひこ at 14:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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