テーマはテーゼの形で書ける
(テーマはひとつでなく複数あることもあり、
むしろそれがポピュラーだ)
と書いた。
つまり、
AとはBである
という形で書けるということだ。
これには、簡単に反論することができる。
AがCの時もあるじゃないか、という反論だ。
その時、その命題をどうするかだ。
AはBでもあり、Cのときもある
と修正するのは愚策だ。
中途半端で迷っているからだ。
そもそも、AはBだ、
という言い切り、気持ちよさ、ズバリ感、
つまり抜けの良さがその長所だったのに、
それがイマイチだからだと言って、
その長所を潰すことは愚の愚である。
これに反論するとき、
BであるものだけをAと呼ぼう(Aの再定義)
がよく使われる。
「映画は文学だ」
「何も考えずに見られて、あとに何も残らない映画もたくさんある」
「それは映画とは呼ばない(俺は映画と認めない)」
あるいは、
CはAではない
というシンプルさで、Bを言わずして表現することもある。
「何も考えずに見られて、あとに何も残らないものは、
映画ではない」
という論法だ。
こうすればいいのに、
Aとは、BもありでCもあり
AとはBやCで、それ以外もある
AはBだ、例外的にCもある
Aは主にBだ(個人的にCのときがあります)
AはBだ(CM上の演出です)
AはBだ(ただし弊社の主張を表すものではありません)
AはBだ(ただしフィクションです)
AはBで、CはDだ
世の中にはAとCがあり、BとDである
などと話をややこしくするのである。
これを、愚者の改訂と呼ぶことにしよう。
愚者は間違いを認めない。
間違ってるじゃないか、と言われるとうろたえる。
愚者は間違いを、
あえて知ってて、こういうことを断言することに意味がある、
それが主張である、
という風にとらえられない。
間違っていたら、正確にすることが正しいことだと思う。
それは、世の中には正しいことと間違ってることがあって、
正しいことに従うべきだと考えるからである。
それが愚者の証拠だ。
人のケツにくっついているからだ。
賢者は人の先頭にたつ。
愚者は、
間違ってても主張することが、
「新しく意味を定義すること」ということが理解出来ない。
それは、愚者は、
世の中にはすでに誰か偉い人に規定された、
正しいこととと間違ってることがあり、
それらは不変だと考えるからだ。
賢者は、
それは揺れていると考える。
だから、
その揺れに、ひと揺れ足して波風を起こし、
世界を変えていこうとするのである。
その最も先端を尖らせるために、
なるべくシンプルに、強い、
AとはBである、
という一言に集約させただけなのだ。
賢者は、
世界の揺れを敏感に感じ、
その揺れに揺れを加えることで、
世界を変えていこうとしている。
愚者は、
間違いを指摘されるのが怖くて、
言い訳ばかりし、
その主張をややこしくする。
その違いだ。
賢者の改訂は、
BであるものだけをAとよぼう
CなんてAじゃないさ(Bが読み取れる場合)
であるべきだが、もし「AがBだ」と言えないのなら、
AはEである
と、全く新しいものにするか、
FはGである
と、全然違う、しかし同じ型のテーマを見つけるだけだ。
ABCと、登場人物を増やしてはならない。
話がややこしくなるからである。
ややこしくなるだけではない。
世の中に切り込む鋭さが失われ、
存在の意味がなくなるという致命傷だということを、
おそらく愚者は気づいていない。
愚者だからだと思う。
「この物語はフィクションです」は、
「超人バロム1」の敵が「ドルゲ」だったが、
ドイツ人医師ドルゲ氏が、息子が苛められているという抗議を期に、
つけられたものだと言われている。
(都市伝説説あり)
これは愚者の改訂である。
賢者の改訂とは、
「ドルゲは滅亡した。新たな敵、ザンゲが現れた!」
と、ドルゲをなかったことにすることだ。
デザインもコンセプトもまんま同じで、
名前だけ変えちまえば良かったんだ。
(サービスするなら、ドルゲは実はいいやつだった、
しかし新たな敵ザンゲに殺された!許さんザンゲ!
というエピソードでドルゲ氏の息子をいじめから救えたかもだ)
それを、Cを足すから、
話がややこしくなるのである。
「これはCM上の演出です」って入れるやつ、
入れろと指示するやつ、バカじゃねえの?
あなたは、どんな、「AとはBである」を言うのか。
それは、切り詰めて切り詰めて、
最も強く、シンプルにした言葉で、
Cごときにびくともしない、
世の中を変える考え方だろうか。
2015年03月25日
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