2015年03月25日

AとはBである2

そのテーマが、
全く新しく、斬新で、世界を一言で変えられる、
誰もが驚愕し、度肝を抜かれ、
全員が熱狂的に賛成し、
皆がそれに倣うようのは、理想である。
理想だが、多分ない。

じゃあ現実にありそうな「AとはBである」テーマって?

それは、
「現実でも揺れていること」の中にある。



そのテーゼが、
100%その通りだとも、
100%そうではないとも言えないことを、
物語のテーマにするとよい。

「天動説ではなく地動説が正しい」
ことをテーマにするのではなく、
ガリレオならば、
「私は正しいが、誰もが理解できるわけではない」
をテーマにするべきだ。


よく僕が例に出すのは、
「男女の間に友情は成立する」である。
反対の、「男女の間に友情は成立しない」でも構わない。

どちらでも、
100%正しいとは限らないことだ。
時代や状況によって、
変わりうることをテーマにするとよい。

練習のために、
「戦争はよくない」「差別はよくない」
「この商品は○○なところが素敵だ」
というものをテーマにすることはとても良いことだ。
作劇がテーマとどのように関係するかを知る、
よい練習になる。
ただの演説でやるよりも、
心に深く感じ入るための練習になる。
論理ではなく感情で、テーマを理解する。

しかしこのような、
100%正しいことを主張するために、
物語のテーマがあるのではない。
それはプロパガンダと呼ばれる、
見た目が殆ど同じの別のジャンルである。
(だからプロパガンダは巧妙に物語の形を取る。
宗教はすべからく物語によって伝播された。
キリスト教しかり。仏法説話しかり)



我々が描くべき物語は、明確な主張をしてはならない。
それはあくまで炙り出される、間接表現に過ぎない。
我々が魂を込めるのは、
テーマではなく、
テーマを表すモチーフと、両者の関係と、
そのディテールである。


何故100%正しいものが、テーマになり得ないのか。
新しくないからである。

芸術は、世の中を新しくする。

新しくするのは、
現在の揺れを利用する。
必ずしも確定していない、揺れていることに対して、
動揺させるのである。

その結果、
異論や反論が出るのは当たり前だ。
揺れに対して波風を起こしたのだから。

それが物議を醸すということだ。
(悪い意味の物議を醸すのは、
タブー表現に切りいったりしてどや顔するだけのものを言う。
映画版「ヘルタースケルター」とか。見てないけど)

物議を醸す結果、
人々の考え方が変わったり、
偏見が覗かれたり、
これと言えばこれ、になることが、
世界を変えるということだ。

そのようなものは、100%善とか悪からは出てこない。
49%や51%のあたりでキワキワの奴から生まれるのだ。


あなたは、
それに敏感になるべきだ。
そこに、テーマという金鉱脈がある。



「心の闇」自体は新しいモチーフではないかもしれない。
天狗なんて古臭いモチーフだろう。炎なんて今さらだ。
しかし、「心の闇は、自力で、または協力すれば、
その原理を理解して、破ることが出来る」
というテーマは、新しいと思う。

これはカウンセラーや一部の文学者や占い師が、
やって来たことでもあるけれど、
一般の人がそのようなことを考える、ということは新しい。
「てんぐ探偵」が、何故これほどまでに俺に書けと言っているのか、
分からないまま、ずっと筆を重ねてきた。
それがようやく、言葉で言えるようになってきた。
(言葉で捉えられるということは、
終わりが見えてきたことなのだけど)

ということで、四月には序盤のリライト版が発表できるスケジュールかと思います。
また遅れるかもですが。
(結局ステマになってるけど、テーマのことと、天狗のことは、
今俺のなかでは分離できないのですいません)
posted by おおおかとしひこ at 19:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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