2015年03月28日

事実と誇張と省略

物語は、事実の記録から始まったかも知れない。
それが、いずれ尾ひれ端ひれがついてゆく。

物語的な誇張と省略によってである。


例えば嫌な部長がいるとする。
あなたにとって物凄く嫌なのだが、
それをあなたは伝えるのがあまり上手くないとしよう。
そうすると、あなたは誇張をして強調するのだ。

不細工でうるさいなどだ。
それは、その部長のことを示す感情を強化する。

それは、物語のなかで一人歩きをはじめる。
不細工でうるさく、角が生えていて、臭いなどに。
背が低くて、太っていて、嫁も不細工で、などに。

「嫌な感情」の強化は更に強化される。
その物語世界で、最も嫌な感情を示すところまで。


僕は、鬼はこうやって出来上がったと考えている。

最初は単なる嫌な奴らだったのが、
強調と省略でエスカレートしていったのだと。

もしその部長の話が生き残り、
100年伝承されたら、鬼並みに描写されるだろう。
オリジナルな、残忍なエピソードが挿入されるかもだ。

もはや部長は生きていないから、
事実関係は関係なく、
話を誇張する方向に、変形していくだろう。


僕は桃太郎神話は、
渡来人産鉄民との、領地争いであると考えている。
彼らの持つ異文化が、鬼という誇張に化けたのだと。
播磨吉備は、秦氏が多いことから、
秦氏vs時の天皇家一族のバトルだと考えている。

以前にも書いたが、犬猿雉は動物ではなく、
下等民族や身分が下の者ということ。
安倍晴明が式神を使ったというのも、
紙を動かす魔法ではなく、密書を持たせた下等民族だと考えている。
吉備団子は、食糧ではなく、食糧を生む土地のことだと考えている。

つまり、吉備王子が、三人または三種の下等民族と、
領地を与えることを条件に、異民族を虐殺した話が、
誇張と省略で伝説となったと考えている。
それが、この部長の話のように、
誇張されたり、省略されたり(向こうの事情とか)して、
何度もダビングされてきたのだと考えている。
ダビングするたびに、
どこかが誇張されたり、省略されたりするのである。
(妖怪牛鬼は、四国宇和島の、牛の頭の象みたいな巨大な奴のバージョンと、
江戸期の妖怪絵で有名な、牛頭の蜘蛛の、ふたつのバージョンがある。
僕は牛鬼は、秦一族だと考えている。
見るだけで死ぬ、つまり免疫のない菌を保有してる別の一族だし、
牛を食べる習慣があるし。
ついでに、古代天皇家の敵、土蜘蛛も、秦一族だったと考えている。
牛鬼のふたつのバージョンのビジュアルは、秦一族ということで一致する。
てんぐ探偵30話では、より原型と思われる前者を採用した。
秦一族じゃなくて、妖怪扱いにしたけどね)


例えば、絵の模写がそうだ。
模写の模写、模写の模写、模写の模写の模写ぐらいになると、
オリジナルの原型は大分歪む。
(地方に伝承された絵などを見ると、
ははあアレの模写の模写の模写だな、と分かるものだ。
有名どころで言えば鞍馬天狗の絵や役行者像、
宮本武蔵像などだ)


その絵を特徴付ける一番の所が強調され、
それに関係しない部分が省略される。

それは、人が人に伝えることの限界と、
そこに特有の特徴を観察することが出来る。



リライトとは、
それをすることのような気がする。
あなたは、他人が書いたものを、
より面白く他人に伝えるために、
より誇張と省略を使って、面白くするのだ。


ちなみに、
メール転送だから、と一言一句間違ってなく伝わるので、
これで連絡を回してくる奴は、
僕は馬鹿だと考える。
人づては、最初に出された言葉の空気や文脈が、
省略され、文の中だけが誇張されるからだ。

桃太郎伝説が、異民族退治を正当化するという当時の文脈を失い、
面白おかしいビジュアルを持つおとぎ話になってしまったのと同様のことが、
メール転送には起こっていると考える。
文脈が失われ、文面だけが残ることで、
それが起こるのだろう。
文面だけが情報源になるため、文面の中のことが、文脈以上に誇張される。

メール転送で、相手が凄く怒っていると誤解して、
会ってみたらちょっとしたことだった、
なんてこともよくある。
大したことないと軽んじていたら、 激怒だったこともよくある。
誇張と省略だ。

メール転送は、文脈込みでどのように書いたらよいかと分かる、
客観性を持った作家以外は、やってはいけない。
そこに仕事の意志を越えた、誇張と省略、
すなわち物語が発生してしまうからだ。
それは、本来の意図と離れて一人歩きをするだろう。

それを知らない人が、メール転送してくる。
馬鹿だと思う。
(一々この話をするのが面倒なので、放置している)



さて、
何故誇張や省略が起こるのだろうか。
僕は、「その世界が有限だと確定したときに起こる」
と思っている。
物語が終わったとき、その空間的範囲と、時間範囲が定まる。

その中の要素で、
起こらなかった「起こりそうなこと」は省略していい。
(使われない伏線は削る。スパイダーマン2の、
隣人の女の子、いらなかったよね?
あの子との恋が暗示されてたけど、なかったよね?
これは3で完結したからこそ言えること。アメスパの話は知らん)

起こったことは、強調される。
悪はより悪かったように、泣いたことはより悲劇に、
動いた気持ちが、その物語の核になるように。


そうやって、記憶として圧縮されるのではないかと考えている。

誇張は、だから、
その記憶をより増幅する方向に働くと思う。

リライトでなすべきは、ここだ。
例えば泣ける場面を書いた、という記憶のはずなのに、
思ったほど泣けないことに、リライトで気づく。
これは重要な感覚だ。

記憶のされ方に近づける。
つまり、より泣けるように書き直すことだ。

そして、省略もするとよい。
使わなかったことは、既に書き終えたあなたは、知っているからだ。



つまり、リライトは何のためにするのか。
自分内でダビングし、
誇張と省略をするためにあるのだ。

まあまあの敵を更に悪く描いたり、サブの要素を立てたり、
クライマックスをより強くしたりするのである。
(単純には、「良くなった」という印象しか残さないだろう。
しかし、具体的は色々とやるのだ。
脚本添削スペシャル「ねじまき侍」のリライトを、
そこに注目して見てみるのもよい)


間違いを訂正したり、
あれはああした方が良かった、
などの、ストーリーの別バージョンをつくることは、
リライトの中では、実は大したことではない。

本当の目的は、
誇張と省略をして、
より世界を増幅することにあるのだ。



(今てんぐ探偵の「あのとき、出来なかったこと」妖怪若いころ果たせなかった夢を、
今リライトしている。
クライマックス、母が娘を抱き締めるところが、
僕はいいと思っていたのだが、
読み返すとたいしてよくなかった。
娘のキャラが立ってなくて、別に、って感じだった。

そこで、クライマックスを全面的に変え、そこに向かって話が進むように再設計した。
勿論、クライマックスを元のを生かして、娘のキャラを立て、
二人が抱き合い、あなたに会えた方がピアノより幸せだった!
と泣くように作り直すことも出来ただろうが、
それが嘘くせえなあと思う僕の心が、別のクライマックスを選択させた)
posted by おおおかとしひこ at 20:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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