更に深く考える。
「人は、途中なんかどうでもいい。
(展開が、矛盾やおかしなところや齟齬がない限り)
スムーズに無理なく流れれば流れるほどそれは忘れてしまい、
頭とケツだけを覚える」
と言えないか。
三段論法において、
A⇒B⇒C
の、間のBは、
それがどんなに革命的であろうと凄かろうと、
矛盾や破綻がない限り、
一端理解されたら、忘れられる運命にある。
人は、A⇒Cと記憶する。
定理の、前提と結論だ。
更に複雑な論理があるとする。
A⇒B⇒C⇒……⇒Z
だとしよう。
もしこの論理に破綻がなく、正しければ、
人はA⇒Zと記憶する。
間のことなんか忘れる。
一回読んだ(理解した)けど忘れた、みたいになる。
下手すると結論Zしか覚えていない。
前提Aなんか適当な記憶か、曖昧なものを補完して思い出したりする。
死刑判決なんてそうだよね。
判決理由が納得がいけば、
「事件の残虐さ」と「死刑になった」しか記憶に残らず、
それはセットとして記憶される。
振られたこともそうだ。
彼女が切々としたこれまでのことを述べ、
そこに矛盾がなければ、突っ込みの余地がなければ、
結論だけが重要だ。
「付き合ったけど」「別れた」だ。
間に良かったことや悪かったことがあったとしても、
それは「過去のこと」の箱に入り、
それは「振られたこと」となり、
それは「付き合っている途中に色々あったこと」
とは記憶されない。
人間のやることは、時に論理的でないが、
A⇒Zになることは、同じなのである。
論理を上げたのには理由がある。
何故なら物語のプロットとは、
「論理の連鎖」だからだ。
あの人がこうした、だから私はこうした、
それに対しこの人がこう言った、
私はそれにこう言い、こういうことになった、
そこであの人はこう出たのである、
などのような、
理由と行動が、全て順接で繋がれたもののことを、
物語と言うからだ。
それが矛盾しないことが、物語の最低条件だ。
理不尽や不条理は、どこかで理屈で納得いくことに、
どこかでどんでん返しされる必要がある。
このことから分かること。
人は、本当に満足がいった物語は、途中が記憶に残らない。
前提と結論(主人公の当初の苦境と、テーマ)
しか記憶に残らない。
また、
途中に矛盾や齟齬やおかしなことや綻びがあると、
そこで引っ掛かり、
最後まで味わっても、
喉に引っ掛かった骨のことが気になり続ける。
つまり、映画の感想は二種類しかない。
「良かった!」というとても短いものか、
「アレ変だよ、だってアレがアレで、しかもあそこがオカシイ」
という長々とした、ツッコミかだ。
前者については、テーマが良かったとか、
主役が良かったとか、プロ以外は大したことが言えない。
つまり、記憶に残らないからである。
良すぎるものは、言葉で語れないのである。
後者については、まず矛盾や、入り込めないという、
「途中」を問題視し、
結論や主人公について言及されることはない。
つまり、
本当に良かったことを、
人は言葉で説明出来ない。
(批評家に必要とされるのは、
B⇒…⇒Yを、上手に語れる力だと考える)
ドラマ「風魔の小次郎」は後世に残る傑作だが、
それがどういいかを、
見終えた人は、上手く表現できない。
寧ろオンエア「中」の2ちゃんスレや実況スレが、
途中のことを上手く語っている。
(当時の感想ブログのいくつかは、個人的に保存してある)
映画「いけちゃんとぼく」は、
ラストが傑作だが、序盤に欠点を持つ、総合的には秀作だ。
序盤の欠点を飲んでくれる人は、「良かった」「号泣した」と、
短く誉めて気に入ってくれ、
そこに引っ掛かった人は、そのことだけを延々と指摘する傾向にある。
その差はなんだろう。
その事を知りたくて、僕は脚本とは何かについて、
ずっと考えてきたような気がする。
そして、分かったこと、確かなことを、書いているつもりだ。
成果は次回作で。
ということでここで終われば、
一連のこの文章は、頭とケツを揃えた、
俺の次回作、という記憶のされ方になるだろう。
ためしに記憶のされ方を変えてみよう。
物語は、記憶の構造と密接な関係がある。
「途中におかしなところがなければ、
頭とケツ(前提と結論)に圧縮する」ということが、
どちらも同じである。
2015年03月29日
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