2015年03月29日

乱暴なリライト3

更に深く考える。
「人は、途中なんかどうでもいい。
(展開が、矛盾やおかしなところや齟齬がない限り)
スムーズに無理なく流れれば流れるほどそれは忘れてしまい、
頭とケツだけを覚える」

と言えないか。


三段論法において、
A⇒B⇒C
の、間のBは、
それがどんなに革命的であろうと凄かろうと、
矛盾や破綻がない限り、
一端理解されたら、忘れられる運命にある。

人は、A⇒Cと記憶する。
定理の、前提と結論だ。

更に複雑な論理があるとする。
A⇒B⇒C⇒……⇒Z
だとしよう。
もしこの論理に破綻がなく、正しければ、
人はA⇒Zと記憶する。

間のことなんか忘れる。
一回読んだ(理解した)けど忘れた、みたいになる。

下手すると結論Zしか覚えていない。
前提Aなんか適当な記憶か、曖昧なものを補完して思い出したりする。


死刑判決なんてそうだよね。
判決理由が納得がいけば、
「事件の残虐さ」と「死刑になった」しか記憶に残らず、
それはセットとして記憶される。

振られたこともそうだ。
彼女が切々としたこれまでのことを述べ、
そこに矛盾がなければ、突っ込みの余地がなければ、
結論だけが重要だ。
「付き合ったけど」「別れた」だ。
間に良かったことや悪かったことがあったとしても、
それは「過去のこと」の箱に入り、
それは「振られたこと」となり、
それは「付き合っている途中に色々あったこと」
とは記憶されない。

人間のやることは、時に論理的でないが、
A⇒Zになることは、同じなのである。


論理を上げたのには理由がある。
何故なら物語のプロットとは、
「論理の連鎖」だからだ。

あの人がこうした、だから私はこうした、
それに対しこの人がこう言った、
私はそれにこう言い、こういうことになった、
そこであの人はこう出たのである、
などのような、
理由と行動が、全て順接で繋がれたもののことを、
物語と言うからだ。


それが矛盾しないことが、物語の最低条件だ。
理不尽や不条理は、どこかで理屈で納得いくことに、
どこかでどんでん返しされる必要がある。


このことから分かること。

人は、本当に満足がいった物語は、途中が記憶に残らない。
前提と結論(主人公の当初の苦境と、テーマ)
しか記憶に残らない。
また、
途中に矛盾や齟齬やおかしなことや綻びがあると、
そこで引っ掛かり、
最後まで味わっても、
喉に引っ掛かった骨のことが気になり続ける。

つまり、映画の感想は二種類しかない。
「良かった!」というとても短いものか、
「アレ変だよ、だってアレがアレで、しかもあそこがオカシイ」
という長々とした、ツッコミかだ。

前者については、テーマが良かったとか、
主役が良かったとか、プロ以外は大したことが言えない。
つまり、記憶に残らないからである。
良すぎるものは、言葉で語れないのである。

後者については、まず矛盾や、入り込めないという、
「途中」を問題視し、
結論や主人公について言及されることはない。


つまり、
本当に良かったことを、
人は言葉で説明出来ない。
(批評家に必要とされるのは、
B⇒…⇒Yを、上手に語れる力だと考える)


ドラマ「風魔の小次郎」は後世に残る傑作だが、
それがどういいかを、
見終えた人は、上手く表現できない。
寧ろオンエア「中」の2ちゃんスレや実況スレが、
途中のことを上手く語っている。
(当時の感想ブログのいくつかは、個人的に保存してある)

映画「いけちゃんとぼく」は、
ラストが傑作だが、序盤に欠点を持つ、総合的には秀作だ。
序盤の欠点を飲んでくれる人は、「良かった」「号泣した」と、
短く誉めて気に入ってくれ、
そこに引っ掛かった人は、そのことだけを延々と指摘する傾向にある。

その差はなんだろう。
その事を知りたくて、僕は脚本とは何かについて、
ずっと考えてきたような気がする。
そして、分かったこと、確かなことを、書いているつもりだ。
成果は次回作で。


ということでここで終われば、
一連のこの文章は、頭とケツを揃えた、
俺の次回作、という記憶のされ方になるだろう。

ためしに記憶のされ方を変えてみよう。


物語は、記憶の構造と密接な関係がある。
「途中におかしなところがなければ、
頭とケツ(前提と結論)に圧縮する」ということが、
どちらも同じである。
posted by おおおかとしひこ at 10:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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