2015年03月27日

巨視的に見てみる

まさかだけど。

映画や映像から、ストーリーが消えること。
(もうCMやPVはそうなっているし、ドラマも半ば、日本映画も半ば)


「物語というものは、
常に時代の最先端にいる」という仮説を立ててみる。


小説は、当時の時代の最先端、出版技術によって成立した。

映画は、フィルムカメラと映写機という産業革命と、
芝居小屋(と土地開発)で成立した。

漫画は、絵も印刷出来るようになった最先端印刷技術の上で成立した。

テレビドラマも、テレビ受像機と電波塔という最先端技術の上に成立した。

僕がCM業界に来た1997年ごろは、
CMが流行を生む、時代の最先端だった。

ゲームは、ICチップの大量生産の上に成立した。

3Dやら4Kやら、スマホやネットが今の最先端技術で、
もう少し先には別の先端技術があるだろう。


たとえば歌謡曲や演歌には物語があった。
今のJ-POPには物語はない。
そのなくなった時期は、最先端が、
レコードプレイヤーやCDプレイヤーではなくなってしまった時期と、
一致するのではないか。



「最先端の世界に物語がいる」と仮定すると、
「映像はもはや過去の技術だ(最先端技術ではない)から、
そこに物語はなくなる」
と言う結論になるような気がする。

ファミコン、SFC、プレステやセガサターンが出た当時は、
全て最先端技術の結晶で、革命的発明だった。
だからそこに物語(名作RPGとか)がいた。

PS4は今、人類の最先端か。違う気がする。


人類の最先端は、今どこだろう。

今の所ネットかも知れない。
だからまとめサイトには、
下手な映画や漫画や小説より面白い物語が、沢山転がっている。


また別のものが最先端になったとき、
物語という亡霊は、そこに引っ越すのかもしれない。

小説、漫画、映像、ゲーム、ネット。
それらが過去の遺物になるときが来るのかは、分からない。
しかし「物語は、最先端にしかいない」という仮説を認めるならば、
これらにある「物語」的なものは次第に滅びてゆくのかもしれない。

そして、今の僕らには想像もつかない最先端に、
物語が花を開かせるような気がする。

たとえば火星移住した時とか、
脳神経がネットに移植されて電脳化された時とか。
光学迷彩がもうすぐ実現しそうなので、
その周りに物語は生まれ得るかも知れない。


エイプリルフールに書けば良かったが、
どうやら本当らしいので、今書いた。


時代の遺物に、映画やドラマがなるのは、どれくらい先か分からない。
その滅びが始まっていると考えるのは、心配しすぎかなあ。

少なくとも、CMにしっかりしたストーリーがあって、
それに爆笑したり感動したりみんなが真似したりする、
つまり「夢中になる」ことは、
もう(日本には)ないような気がする。

かつてよりも小さな規模で、業界は成り立って行くかもしれない。
それは、先細るということで、最先端ではない。
なんとなく、歌舞伎のようになっていくんではないかな。



どこに最先端があろうと、物語の性質そのものが変わることはない。

なぜなら、我々は時代が変わっても、同じ人間だからだ。
(例えば人工知能が出来たら、
人工知能同士にしか分からない物語が生まれるかも知れない。
人間にしか分からない物語は、人間が滅びて人工知能が生き残る世界には、
珍重されない可能性もあるね)

ということで、残った人類のために、
僕は物語を書くとしよう。
勿論映画が作れれば作るし、ドラマが作れれば作る。
それがちゃんとした物語ならね。

どうも、
映画業界もドラマ業界も、「物語はもうどうでもいい」って言ってるような気がして、
ならないんだよねえ。


脚本論かな。大きくは、そうですな。
posted by おおおかとしひこ at 12:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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