2015年03月27日

過去を書いている、という意識

そう思うとうまくいく、という経験則。



ただでさえ、シナリオは現在形で書く。
シナリオは、
今目の前で起こっていることを、
カメラで撮る為に書く。

役者は、シナリオに書かれている現在の気持ちや行動が、
まるで本当の今の気持ちであるように演じ、
カメラは、まるで本当に今起きていることのように、撮る。

それを観客は、
今、本当に起きていることと思って、見る。
(最初は本気でなかったとしても、
途中から本気でそう思いながら)

だから我々書き手は、
今、そこにある、目の前のことに集中しなければならない。
ビビッドに。リアルに。
作り物に見えない、本当の今のこと。

だが、それだけでは不足だ。
我々は引いた目も同時に持たなければならない。

目の前のことを目の前で見ながら、
全体を見渡していなければならない。
これはよく言われることだ。

しかしこう言われると、引いた目はどこにいるかという問いができる。
あなたの引いた目は、
起こっている事件の目の前の砂かぶりの席と、
同時にどこか後ろの方に存在することになる。
その引いた目に質問しよう。

「いつ」にいる?

同時刻にいるのではなく、
そこから外れた時間軸にいよう、という考え方が今回の主旨である。
具体的に言うと、今この瞬間よりも、
遥かに未来にいるべきだ。

あなたから見て、
あなたは、遥かに過去のことを書く。
それが理想という話。



物語を書いていて一番よくあることは、
凡庸な作品を作ることでもなく、
複雑なプロットに混乱することでもなく、
「途中で書けなくなること」である。

僕はこれを防ぐ様々な方法を、様々な角度から書いてきた。
それは、物語というのは何かについて、
何らかの知見を与えてくれると思う。

今回は、
「全ては過去に起きたことであり、
あなたはその事件が終わったあとの時代から、
思い出すようにしてその物語を綴る」
ということだ。

小説が過去形なのと関係あるかも知れない。
スタンドバイミーやタイタニックが、
現在から過去の事件を語り、現在に戻ってくることと、
関係しているかも知れない。


過去に起きたことだから、
そのストーリーの意味は、既に確定している。

その事件は何故起こったのか、
その事件はどうやって解決したのか、

解決の過程で何が重要だったのか。
どんな新しいことがそこで起こり、
他の凡庸な話と、何が際立って違うのか。
どの点で、その過去に起きた事件は凄いのだろう。

そしてそれは我々に何を教えるのか。
そこで起こった主なことを、我々はどうまとめ、
どのように記憶し、それがどんな価値を放つのか。


それは、
過去に起きたことだから、既に確定している。
確定していないのは、現在進行形の事件だけである。

だからあなたは、
現在進行形の位置にいるだけでは駄目なのだ。
だから書けなくなるのだ。


過去に起きたことだから、
次にどんなことが起こるか、あなたは知っている。
登場人物は知らないから、
知らないが故の思考や行動を取るけど、
あなたは知っている。
だからそれを知りながら、知らないようにビビッドに書く事が出来る。


事件記者や刑事のように、
全ての登場人物が、何時にどこにいて、何をしてたかも知っている。
事件を語ることに必要なことか、
特に知ってはいるが、語る必要がないことも知っている。

何故どうしてこんなことになったのか、
分からないことは何一つない。

全てのことは混乱した中から繋がった、奇跡のような一本の糸であることを、
あなたは遥か過去のことだから、
隅から隅まで調べ上げ、知り尽くしている。

あれをあの人が知っていれば、こうなったのではないか?
というifについても検討済みだ。

無理だった、その時彼は○○だったからだ、と反論はすぐ出来る。
彼と彼女の両方が○○だったら、あるいはあり得たかも知れない、
などのように歴史家になって考えることも出来なければならない。

事実関係や事件の理屈以外にも、
あなたは、登場人物の生い立ちやおかれた状況から、
その時々の気持ちを全て理解している必要がある。

どの場面を切り取っても、
この時この人たちは、それぞれ○○という事情で△△をしている途中で、
××という気持ちだったのだ、
と、見ずに(何かの表を見ても良いが)答えられなければならない。
その5分前に何があったか、その5分後にどうなるかも、
答えられなければならない。


あなたは、過去のその事件を、何から何まで知り尽くし、
case closedと呟いて、
全ての資料を箱にしまう。
その蓋を閉める直前に、
そうだ、この事件について、レポートを書かなければ、と思い立つ。

それが物語である。

その事件の時点から見て遥か未来から、
まるで、その場にいて見て来たかのように書くのである。

なぜその場にいて見て来たかのように書けるのかは、
本当にそこにいた訳ではなく、
何もかも知っているからである。

何もかも分かっているからこそ、
その場の人々の気持ちを、ビビッドに描けるのだ。



たとえば、911事件は陰謀だった、というストーリーを書くことにしよう。
一見テロ事件だったが、それは巧妙に仕組まれ、
ブッシュの中東侵攻戦争のきっかけを作った、
戦略事件である、
という意味のストーリーを書くとする。

登場人物のその時の気持ちは、ビビッドに書けるはずだ。
ある議会での議員同士の会話、
ホワイトハウスの中でない時の大統領の決断、
何も知らずに911にビルに入ったサラリーマン、
今日も出勤したはずだと思っている彼の家族、
それを助ける消防士たち、
解体費用がかかりすぎるためにテロで崩すことを発想したビルオーナーなど、
誰もの気持ちを、
911陰謀論の全貌が分かっていれば、
ビビッドに書くことが出来るだろう。

911陰謀論を僕は信じているのだが、
真相のところは分からない。
だが、フィクションとしてはとても面白い。


過去のことだから、
このように構成を考えて引いた目で見たり、
登場人物のその瞬間にビビッドに寄り添ったり、
そのストーリーの意味や意義について、
冷静でいられるのである。


知らないことなんて何もない。
そのような状態だから書ける。
知らないことがあったら、そこから書けなくなる。

あなたが途中で書けなくなってしまうのは、
その先に、何故、どうやって、何が起こるか、知らないからだ。

知っていれば、書ける。


逆に、
知っているように、何もかも知っているように、
過去の事件を調べ上げるように、
あなたはならなくてはならない。
「全部知っている」から、神となれるのである。



スアンドバイミーや、タイタニック。
小説のよくある書き出しで、過去の事件のことを話そうという回想形式で物語られること。
そして、自分の体験した体験談。
これらは、全て、
「過去のことを、遥か未来から語っている」。


この形式でない、
「現在はじまって、現在展開し、現在終わる」という、
スタンダードな形式ですら、
同じことをするだけである。



つまりあなたは、
全部が分かるまで、書きはじめてはいけない。
posted by おおおかとしひこ at 15:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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