テーマが確定したら、具体的に話を直す。
5. ファーストシーンとクライマックスシーンとを連関させる
これに関しては以前に詳しく書いた。
同じことをしなくてもよいし、
ブックエンドにしてもよい。
(例えば初心者なら、
最初人を助けられなかったシーンから入って、
色々あったあと、
全く同じ状況が訪れて、
今度こそ人を救う、などのようにやるとよい)
このファーストシーンとクライマックスシーンは、
必ずしも最初のシーンと最後のシーンを意味しない。
3シーン目とラストから3シーン前、とかでもよい。
話によって変わるだろう。
しかし、連関のあるその二つの組を、
ファーストシーンとクライマックスシーンと呼ぼう。
ファーストシーンとは、
初めてその主人公に我々の心が入るとき
(登場シーンや、その人の行く末が気になるような、
感情移入の最初の段階に至ったとき。
或いは、最初の方では難しいが、
主人公の行動や台詞に心底感動し、入れ込んだとき)
であり、
クライマックスシーンとは、
これまでの問題の解決の、最も派手な瞬間である。
派手というのは、絵的なこともあり、
心情的に、ということもある。
両者の一致が映画という物語形式だ。
これらの連関が、テーマを暗示することになる。
もし、ファーストシーンより遅いシーンでの、
クライマックスと連関してテーマの暗示になるシーンがあったとしたら、
それをファーストシーンにする
(そのシーンをファーストシーンに作り替える、または、
ファーストシーンにその要素を入れて、
ファーストシーンとクライマックスの連関の二つの要素をうまく融合させる)
ことを考えるといいだろう。
ただ、せっかく上手く出来ているものを壊して駄目になることもある。
そういうときは、連関するシーンをファーストシーンとして、
それ以前を、ファーストシーンより前のオープニング的なものに、
縮められないだろうかと考えてもよい。
リライトは何バージョン試してもよい。
方針は良くても、上がりが微妙なら意味がない。
上がりが良くなる方針が、結果的に採用だ。
「正しいが面白くない」や「面白いが正しくない」より、
「正しくかつ面白い」が正解である。
6. あとは個別に直していく
あとは共通する特性がなく、各論になってしまうので、
あまり書けることがない。
全面的書き直しをしたり、一部直したり、
入れ替えをしたり、落としたり、新シーンを書いたりしよう。
要素や順番も入れ替えたり出来る。
それは全て、テーマの為であり、
面白くする為である。
テーマと関係ないことをやっているのは、正しくない。
やっていることが詰まらないのは、面白くない。
正しく、かつ、面白くなるように、リライトはするべきだ。
リライトをするときいつも大事なのは、
現状は○○だ、という現状認識と、
これを○○して△△にする、という未来像と具体だ。
現状認識は、可愛い子ほど難しい。
だから、過去のものになるまでリライトはするべきではない。
最初に一気読みをして第一印象を見るのは、
その一番客観的な現状を認識するためなのだ。
今自分がやった直しが良かったかどうかは、
「正しくかつ面白く」の原則に従っているかどうかで判断するといいだろう。
今観客を乗せているか、
今観客の予想は何をしているか、などは、
部分では分からない。
最初の第一印象を思い出して、対処していく。
過去の自分がやった、
「なるほどそうきたか」「上手い」などのポイントは、
なるべく生かすとよい。
(一気読みの第一印象を思い出すこと。
一気読みの第一印象は、一回こっきりしかないし、
しかもあとあとまでずっと使うから、
相当集中して読まなければならない)
今の自分が過去の良かった所を、さらに書き直し、
越えられるのなら越えてもよいが、
その労力は良くなかった所を良くするのに使い、
過去の良かった部分と連携するのが、
合理的な力の使い方だと思う。
(そうすると結局良かった所を更によく書き直せるようになる)
このようにして、
良くなかったお話が、どんどん良くなっていくだろう。
「良い」というベクトルがなんのことを指しているのかは、
その作品による。
例えばコメディなら、笑いが切れるべきだし、
そのシチュエーションの面白さが増すべきだ。
感動ものなら、より感動するように作るだろう。
悲劇ならより悲劇を足していくことになるだろう。
ミステリーなら、パズルが複雑にかつダイナミックに、
かつ解いたときのエレガントさが増すように。
ドキドキワクワクなら、それが持続するように。
勿論、部分によっては違う感情に振ることもあるから、
その場面が要求するベクトルになるように。
それらの部分がどの方向に行くべきか決めるのは、
テーマの表現のどの部分をやっているのかの、
自覚が必要である。
例えば、ドラマ「風魔の小次郎」は、
原作「風魔の小次郎」のリライト版だとも言える。
麗羅がなぜ小次郎の親友(同期)に格上げされたのか。
死ぬということが決まっていたからだ。
その死を最大限生かすように、
それが小次郎の糧になるように、
それは最大の悲劇にリライトされたのである。
なぜそうしたのか。
それは風魔の小次郎が、主人公の成長をモチーフに、
忍びでもあり人間でもある、新しい忍びを、
テーマとして描こうとしているからだ。
死が避けられない運命ならば、
その死を糧にすることが、
そのテーマを暗示するからだ。
その死をより悲劇にするように、
麗羅は無邪気な奴として描かれる。
繊細な奴として描かれる。
彼を先に失うべきではなかったと後悔するように描かれる。
そして、小次郎よりも、
忍びとは何かを、分かっているように描かれる。
テーマを暗示するために、リライトされる。
より面白くなるように、リライトされるのだ。
そしてそれは、テーマが確定したからこそ、
可能になるのである。
全体が確定してから、
部分をそれに添うように直していく。
それはつまり、誇張と省略ということになる。
ドラマ「風魔の小次郎」は、原作「風魔の小次郎」を、
より誇張して、より省略したものである。
多くの(ていうか特殊な例外を除きほぼ全ての)漫画原作の実写化の失敗は、
リライトが下手だったからなのだ。
リライトは、書くことより実力がいる。
これが出来て、ようやく一人前だ。
リライトして良くなくなる例を見る。
それは、下手なのだ。
さて。
世の中には、
脚本家の中だけで完結するリライトは、
あまり多くない。
大抵の、他の人(しかも脚本家でない人)からの、
直しの要求があることが多い。
それが理不尽であることのほうが、多いと思う。
その場合でも同じだ。
これは何をどう直すのか、
それによってテーマが変わるかどうかをチェックする。
テーマが変わるのなら、これは変わることになるが良いか、
と周囲に確認するとよい。
それを知らずにリライトの要求をしていることが殆どだからだ。
今このようなテーマだが、これはこのようなテーマの作品になるが、
と二つを並べて議論できるようになるといいだろう。
それでもテーマを変えないように上手く小手先で誤魔化すのか、
テーマそのものを変えて、新たなものに作り替えるかは、
同意を取っておくといいだろう。
これからやることがまるで変わってしまうからだ。
(多くの人は、それじゃテーマが変わるけどいいか?と聞くと、
びびってそんな恐れ多いこと、といい始める。
テーマなんて難しいものに責任を負えないからである。
そういうときはテーマに影響しない範囲で頑張るというと、
感謝されたりする。そうやって貸しをつくるのも処世術だが)
例えば風魔の小次郎第7話「忍び、青春す」は、
最初相撲部の話だった。
イケメン事務所から尻NGが来た
(舞台にもその衣装で出るなど、影響する!)ので、
剛力をモチーフに出来て、
忍び青春す、というのにふさわしい柔道部に、
小手先を変えたのだ。
また、元々あった「どす恋」という恋の話を、
青春と読み替えて、話を作っていったのだ。
小手先を変えても、尚テーマを暗示するように、
小手先を練ろう。
テーマを変えるなら、最初に戻ろう。
原則は、正しくかつ面白くだ。
ネットのどこかで、
「原作に忠実である必要はない。
原作に誠実かどうかだ」という文をみた。
リライトの精神に生かされたい。
2015年03月29日
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