この話が恐ろしいのは、
「(現実と違う)物語的なものの一人歩き」
のような気がしてならない。
経済ニュースでの解説と、マスコミの報道に、
大分解離がある気がする。
ききょう企画の株式取得の件などの専門家の解説に対して、
マスコミではそのようなものを排除することで、
物語的な構造を崩していない。
そして、多くの人は、「物語的に」理解する。
どんな別の事情があったとしても、
今さら、旧vs新、情vs知という構造は変わらず、
テーマは知の勝利、と確定したかのように、
新しい要素は撹乱情報扱いするだろう。
一端設定されたものを途中でひっくり返すことは、
物語であってはならないからだ。
あっていいのはどんでん返しの文法だけだ。
つまり、人々は、物語的にしか他人のことを理解できない。
物語的な理解が出来たときしか、
人は理解したと言わないのだ。
(たとえ真実と違ったとしても)
マスコミに出演した経験のある人は、
自分の発言が随分歪まれて使われることを経験している。
自分の真意がこれでは伝わらないと常に抗議したくなる。
元々、伝わらないのだ。
何故なら、人々が物語的にしか理解しないからだ。
マスコミは、物語的に現実を切り取り、編集する。
逆に、物語的に切り取れるような現実しか扱わないのである。
マスコミが描いたストーリーに不要なものは、切る(省略する)のだ。
僕が映画の試写会で言ったサイバラ漫画の本質の話よりも、
「監督は蒼井優を天才と誉めた」とか、
「監督はデビュー作なので緊張した」とかの、
分かりやすい関係性でしか報道されなかった。
マスコミは映画を見たあとだから、
子供の自立やイマジナリーフレンドの話をしたと思うのだが、
それと関係しない、「マスコミの目論む物語的な」トピックしか取り上げられなくて、
驚いた記憶がある。
ここから言えることは、
マスコミはアホで腐ってる、ではなく、
その程度にしか理解されない、
という一種の諦念である。
勿論主張することは大事で、
今や自分発信可能な時代なのだから、
嘘をつかずに誠実でいれば、いずれどちらが正しいか、
見る人には分かるというものだ。
だが、それ以外の人には、
物語的にしか、理解されないのだ。
アメリカの陪審員制では、
優秀な弁護士ほど、分かりやすいストーリーを組み立てるという。
それが真実でなくてもだ。
分かりやすい物語があれば、
真実のマズイ所を隠し、勝手に解釈してくれる可能性がある。
ききょう企画の件を忘れて、父娘対決に解釈されるように。
或いは、マスコミのコメンテーターなる人は、
今扱ってる物語を理解し、それに使われやすいようなコメントをする。
長年の経験で、使われるところが分かっているからだ。
その物語に乗っかった上で更に自分のコメントをねじ込むのが、
優秀なコメンテーターだ。
我々は物語を作る人間として、
現実にある、物語の化け物のような力を知るとよい。
戦争はこうやって起こる。
大義名分的な物語を書ける人がいたら、
今回の騒動のように、
真実と違う、物語的なものを皆で共有し、
信じることが可能になるはずだ。
(検討していないがヒトラーはそれが上手かった筈だ。
経験した中では、911後の中東侵攻は、「テロ撲滅」というストーリーだった。
この大義名分と、現実にやった石油権掌握は、異なる。
ところがテロ撲滅のほうを皆は信じた。911を目撃したからだ。
911自演説が途絶えないのは、大義名分と真実が違うからだ)
人は、物語的に理解できる範囲でしか、他人を理解しない。
マスコミは、物語的に理解できる範囲でしか、報道しない。
そしてそのIQは、ワイドショーの場合暇な主婦に合わせてある。
更に言えば。
マスコミの理解できる物語を書ける奴が、
マスコミに取り上げられて、消費されたら捨てられる。
そういうものだ。
映画宣伝部が、映画の内容を宣伝するのではなく、
費用対効果という言葉に騙されて、
マスコミに取り上げられるように試写会を組むなんて、
なんの意味もない。
真実をきちんと発信した上で、プロレスを仕掛けるなら分かる。
「嫌われ松子の一生」では、
中島哲也と中谷美紀の確執は、プロレスだったという話がある。
完璧主義の中島らしいと思うが、プロレス説のほうが、
対マスコミ戦略込みで、真実味がある。
それは作品をしっかり広告した上で乗っけてきたものだ。
宣伝部は優秀だったのだな。
映画の中身と引っかけていけちゃんのキャンペーンをやるなら、
どんでん返し系で一発やりゃよかったんじゃないか。
(勿論ネタバレ禁止でね!)
ヘルタースケルターの宣伝はマスコミは賑わせた。
あの沢尻エリカがドエロや整形アイドルに挑戦という、
スキャンダラスなネタは最高に物語的だ。
伝説の漫画家岡崎京子の初の映画化というのもインパクトあった。
(僕らリバースエッジ世代には)
しかし映画の出来は散々だった。頭30分しか見てないが。
今回の大塚家具の争いは、
たまたま物語的だったのか?
それとも誰かがコントロールして、物語的にしたのか?
内部の人間でないので分からないが、外から見る限り、
「嗅ぎ付けられた」というのが実感ではないかな。
嗅ぎ付けられ、物語に仕立て上げられてしまった、
という気がする。
何故か?久美子氏が美人だったから、というのが大きい。
悲劇になるにしてもハッピーエンドになるにしても美味しい題材だった。
そんなもんだと思うよ。
人が理解できるクラスの物語。
そこに込められたシンプルで強い構造と、分かりやすい感情。
あなたの書く物語がそうであるならば、ヒットするかもね。
物語は、難しくなりすぎたのかも知れない。
しばらくは、簡単な物語がヒットするのではないかな。
2015年03月30日
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