2015年03月30日

大塚家具の争い3

この話が恐ろしいのは、
「(現実と違う)物語的なものの一人歩き」
のような気がしてならない。


経済ニュースでの解説と、マスコミの報道に、
大分解離がある気がする。
ききょう企画の株式取得の件などの専門家の解説に対して、
マスコミではそのようなものを排除することで、
物語的な構造を崩していない。
そして、多くの人は、「物語的に」理解する。

どんな別の事情があったとしても、
今さら、旧vs新、情vs知という構造は変わらず、
テーマは知の勝利、と確定したかのように、
新しい要素は撹乱情報扱いするだろう。
一端設定されたものを途中でひっくり返すことは、
物語であってはならないからだ。
あっていいのはどんでん返しの文法だけだ。

つまり、人々は、物語的にしか他人のことを理解できない。
物語的な理解が出来たときしか、
人は理解したと言わないのだ。
(たとえ真実と違ったとしても)

マスコミに出演した経験のある人は、
自分の発言が随分歪まれて使われることを経験している。
自分の真意がこれでは伝わらないと常に抗議したくなる。

元々、伝わらないのだ。
何故なら、人々が物語的にしか理解しないからだ。
マスコミは、物語的に現実を切り取り、編集する。
逆に、物語的に切り取れるような現実しか扱わないのである。
マスコミが描いたストーリーに不要なものは、切る(省略する)のだ。

僕が映画の試写会で言ったサイバラ漫画の本質の話よりも、
「監督は蒼井優を天才と誉めた」とか、
「監督はデビュー作なので緊張した」とかの、
分かりやすい関係性でしか報道されなかった。
マスコミは映画を見たあとだから、
子供の自立やイマジナリーフレンドの話をしたと思うのだが、
それと関係しない、「マスコミの目論む物語的な」トピックしか取り上げられなくて、
驚いた記憶がある。



ここから言えることは、
マスコミはアホで腐ってる、ではなく、
その程度にしか理解されない、
という一種の諦念である。

勿論主張することは大事で、
今や自分発信可能な時代なのだから、
嘘をつかずに誠実でいれば、いずれどちらが正しいか、
見る人には分かるというものだ。

だが、それ以外の人には、
物語的にしか、理解されないのだ。


アメリカの陪審員制では、
優秀な弁護士ほど、分かりやすいストーリーを組み立てるという。
それが真実でなくてもだ。
分かりやすい物語があれば、
真実のマズイ所を隠し、勝手に解釈してくれる可能性がある。
ききょう企画の件を忘れて、父娘対決に解釈されるように。

或いは、マスコミのコメンテーターなる人は、
今扱ってる物語を理解し、それに使われやすいようなコメントをする。
長年の経験で、使われるところが分かっているからだ。
その物語に乗っかった上で更に自分のコメントをねじ込むのが、
優秀なコメンテーターだ。


我々は物語を作る人間として、
現実にある、物語の化け物のような力を知るとよい。
戦争はこうやって起こる。
大義名分的な物語を書ける人がいたら、
今回の騒動のように、
真実と違う、物語的なものを皆で共有し、
信じることが可能になるはずだ。
(検討していないがヒトラーはそれが上手かった筈だ。
経験した中では、911後の中東侵攻は、「テロ撲滅」というストーリーだった。
この大義名分と、現実にやった石油権掌握は、異なる。
ところがテロ撲滅のほうを皆は信じた。911を目撃したからだ。
911自演説が途絶えないのは、大義名分と真実が違うからだ)


人は、物語的に理解できる範囲でしか、他人を理解しない。
マスコミは、物語的に理解できる範囲でしか、報道しない。
そしてそのIQは、ワイドショーの場合暇な主婦に合わせてある。

更に言えば。
マスコミの理解できる物語を書ける奴が、
マスコミに取り上げられて、消費されたら捨てられる。
そういうものだ。


映画宣伝部が、映画の内容を宣伝するのではなく、
費用対効果という言葉に騙されて、
マスコミに取り上げられるように試写会を組むなんて、
なんの意味もない。
真実をきちんと発信した上で、プロレスを仕掛けるなら分かる。
「嫌われ松子の一生」では、
中島哲也と中谷美紀の確執は、プロレスだったという話がある。
完璧主義の中島らしいと思うが、プロレス説のほうが、
対マスコミ戦略込みで、真実味がある。
それは作品をしっかり広告した上で乗っけてきたものだ。
宣伝部は優秀だったのだな。

映画の中身と引っかけていけちゃんのキャンペーンをやるなら、
どんでん返し系で一発やりゃよかったんじゃないか。
(勿論ネタバレ禁止でね!)

ヘルタースケルターの宣伝はマスコミは賑わせた。
あの沢尻エリカがドエロや整形アイドルに挑戦という、
スキャンダラスなネタは最高に物語的だ。
伝説の漫画家岡崎京子の初の映画化というのもインパクトあった。
(僕らリバースエッジ世代には)
しかし映画の出来は散々だった。頭30分しか見てないが。



今回の大塚家具の争いは、
たまたま物語的だったのか?
それとも誰かがコントロールして、物語的にしたのか?
内部の人間でないので分からないが、外から見る限り、
「嗅ぎ付けられた」というのが実感ではないかな。
嗅ぎ付けられ、物語に仕立て上げられてしまった、
という気がする。
何故か?久美子氏が美人だったから、というのが大きい。
悲劇になるにしてもハッピーエンドになるにしても美味しい題材だった。
そんなもんだと思うよ。


人が理解できるクラスの物語。
そこに込められたシンプルで強い構造と、分かりやすい感情。
あなたの書く物語がそうであるならば、ヒットするかもね。

物語は、難しくなりすぎたのかも知れない。
しばらくは、簡単な物語がヒットするのではないかな。
posted by おおおかとしひこ at 11:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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