2015年03月30日

練ることは、身体で語ること

僕が(時代錯誤にも)手書きを推奨しているのは、
身体に覚えさせるためだ。

話を練るということは、どのようなことか。
僕は、ただ話をややこしくすることではないと考える。
「身体で語ったときに、気持ちよくなること」
が基準だと考えている。


今のところプロデューサー達にはなんのこっちゃと思われている。
しかし役者には何となく分かるみたいだ。
彼らは身体を通しているからだ。

リライトの過程で、
話がややこしくなりすぎることがある。
新しい要素が入ったせいで以前のものが混在していたり、
ひとつに決めきれず二つを同時に言おうとしたり、
などが原因だと思う。

こういう話は、頭もそうだが、
身体に違和感が生じると思う。


これらの要素は、頭で整理するより、
身体に任せた方がいいのではないか、と僕は考える。
カードのようなもので整理するのも、
アイデアという抽象に具体の身体を持たせることだと思っている。

具体的には、まず寝て忘れる。
起き抜けに、何も見ずに、頭から最後まで書く。
それだけだ。

勿論、長いものは肉体的に難しい。
短いものだけにそれができる。
長いものでもプロットなら、なんとか行けることがある。
最悪構成でもいい。

つまり、身体で語るように、
身体にストーリーを通していくやり方だ。

寝て忘れた頃に、
いい案配に抜け落ちているのを使うのだ。
そうすると、驚くほど整理が上手くいくことがある。


以前の原稿と見比べてみて、
どこが落とされたか、どこを落としては行けなかったかを、
再び考え、今朝の分が何が駄目だったかを考え直す。

そして夜寝る前にそのポイントを考え、
また寝て起きて書く。

それを繰り返していくうちに、
無意識の中で練られていく。

即ち、「いっぺんにとらえられる範囲内」に、
ストーリーの要素が縮約されていくのである。


一端子供や素人に説明し、
今聞いた話を再現して見せて、
という無茶ぶりも悪くないと思っている。

他人の中ではその程度にしか把握されていないのか、
ということを知ることができる。

他人は殆どを覚えていない。
自分の解釈で勝手に覚えているところすらある。
あなたの物語はそうやって記憶されることを、
実感してみるといいだろう。

つまり、誇張と省略が起こるのだ。


寝て起きて手書きで書く方法は、
身体を通すことで、誇張と省略をする方法である。
頭の記憶に対して、身体は対して覚えられないから、
いい案配に誇張と省略が起こるからだ。

一端頭で凄い!と思った話でも、
他人に伝えられない話では、
口コミに乗りにくい。
とにかく凄いんだとしか説明できない。
それよりも、誇張と省略が起こったとしても、
伝播しやすい形をしているのがよいだろう。

それを、寝て起きて書くことでシミュレートするのである。
頭でやるのは駄目だ。必ず手書きだ。
手書きの限界が、誇張と省略の限界だ。
その程度にしか、理解がされないのである。


寝て起きて、今朝昨日のリライトを読んでみて、
練りが足らんなあ、と自分で思った。

物語は、頭でも理解するが、
残るのは身体にであるような気がする。

そうでなければ、物語が、
血沸き肉踊るはずがないではないか。
素晴らしい物語は、身体がワクワクするように出来ているような気がするのだ。
ドキドキしたり泣いたりなんて、
身体操作を何故物語がするのかを考えるとよい。
僕は、物語は身体的であると考えている。


練るのは身体を使って。
身体が一番動くように。
あまり賛同者がいないけど。

(僕が編集を自分でやるのは、その身体感覚を乗せるためだ)
posted by おおおかとしひこ at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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