僕が(時代錯誤にも)手書きを推奨しているのは、
身体に覚えさせるためだ。
話を練るということは、どのようなことか。
僕は、ただ話をややこしくすることではないと考える。
「身体で語ったときに、気持ちよくなること」
が基準だと考えている。
今のところプロデューサー達にはなんのこっちゃと思われている。
しかし役者には何となく分かるみたいだ。
彼らは身体を通しているからだ。
リライトの過程で、
話がややこしくなりすぎることがある。
新しい要素が入ったせいで以前のものが混在していたり、
ひとつに決めきれず二つを同時に言おうとしたり、
などが原因だと思う。
こういう話は、頭もそうだが、
身体に違和感が生じると思う。
これらの要素は、頭で整理するより、
身体に任せた方がいいのではないか、と僕は考える。
カードのようなもので整理するのも、
アイデアという抽象に具体の身体を持たせることだと思っている。
具体的には、まず寝て忘れる。
起き抜けに、何も見ずに、頭から最後まで書く。
それだけだ。
勿論、長いものは肉体的に難しい。
短いものだけにそれができる。
長いものでもプロットなら、なんとか行けることがある。
最悪構成でもいい。
つまり、身体で語るように、
身体にストーリーを通していくやり方だ。
寝て忘れた頃に、
いい案配に抜け落ちているのを使うのだ。
そうすると、驚くほど整理が上手くいくことがある。
以前の原稿と見比べてみて、
どこが落とされたか、どこを落としては行けなかったかを、
再び考え、今朝の分が何が駄目だったかを考え直す。
そして夜寝る前にそのポイントを考え、
また寝て起きて書く。
それを繰り返していくうちに、
無意識の中で練られていく。
即ち、「いっぺんにとらえられる範囲内」に、
ストーリーの要素が縮約されていくのである。
一端子供や素人に説明し、
今聞いた話を再現して見せて、
という無茶ぶりも悪くないと思っている。
他人の中ではその程度にしか把握されていないのか、
ということを知ることができる。
他人は殆どを覚えていない。
自分の解釈で勝手に覚えているところすらある。
あなたの物語はそうやって記憶されることを、
実感してみるといいだろう。
つまり、誇張と省略が起こるのだ。
寝て起きて手書きで書く方法は、
身体を通すことで、誇張と省略をする方法である。
頭の記憶に対して、身体は対して覚えられないから、
いい案配に誇張と省略が起こるからだ。
一端頭で凄い!と思った話でも、
他人に伝えられない話では、
口コミに乗りにくい。
とにかく凄いんだとしか説明できない。
それよりも、誇張と省略が起こったとしても、
伝播しやすい形をしているのがよいだろう。
それを、寝て起きて書くことでシミュレートするのである。
頭でやるのは駄目だ。必ず手書きだ。
手書きの限界が、誇張と省略の限界だ。
その程度にしか、理解がされないのである。
寝て起きて、今朝昨日のリライトを読んでみて、
練りが足らんなあ、と自分で思った。
物語は、頭でも理解するが、
残るのは身体にであるような気がする。
そうでなければ、物語が、
血沸き肉踊るはずがないではないか。
素晴らしい物語は、身体がワクワクするように出来ているような気がするのだ。
ドキドキしたり泣いたりなんて、
身体操作を何故物語がするのかを考えるとよい。
僕は、物語は身体的であると考えている。
練るのは身体を使って。
身体が一番動くように。
あまり賛同者がいないけど。
(僕が編集を自分でやるのは、その身体感覚を乗せるためだ)
2015年03月30日
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