どんなものでも、自分の書きたかったものや、瞬間を描いたときは、
気持ちいい。
ということは、あなたはそこでドヤ顔をしているということだ。
それが、全員を乗せた上でのカタルシスなのか、
一人で暴走した末の滑ったドヤなのか、
どうやって区別をしたら良いだろう。
周囲の登場人物に、リアクションさせて見るといい。
それに対して、
全員が納得して絶賛して拍手するのなら、
それは少なくとも、作中で素晴らしいカタルシスを迎えたことだ。
何かの変化が、皆に訪れるだろう。
ところが、誰かがしらけていたり、ただ驚いたり、
理解できていないとき、
それは滑ったドヤになっている。
変化を及ぼすべきカタルシス(だとあなたが思い込んでいること)が、
滑っているのである。
例えばうんこ映画実写ガッチャマンのクライマックスを見てみよう。
俺は一人を見捨てるのを否定する!
とジョーを助けにいく所で、
全員が「オイオイ」と思うだろう。
理屈で言えば、一人犠牲で百万人助かるなら、安い取引だからだ。
しかもその犠牲は兵士である。
貴重な適合者とはいえ、私情抜きならば、
兵隊一人犠牲で百万人助かるなら、いい働きの兵隊ではないだろうか。
この感情が滑っているのは、
これまで出てきていない感情だからである。
かつて誰か一人犠牲にしてひどい目にあったことがあり、
ここでその一人を助けることが、
なんらかのカタルシスを、
ケンにもたらしたり、ケンだけでなく全員にもたらしたりすれば、
このカタルシスは皆に変化を及ぼすべきカタルシスになる。
しかしここでは、
「南部博士の指示に逆らう」ことが、
ケンの溜飲を下げているだけだ。
つまり、私情に流されているだけだ。
感情移入がケンになされていないので、そもそもアレだが、
感情移入も出来ない主人公の私情の行動なんて、
知ったことではないのである。
正しい感情移入ならば、
ケンの私情にみんな感情移入し、
理不尽への抵抗にみんな拍手をし、
南部博士のギャフンに、溜飲を下げるはずだ。
そうならないのは、滑っているからだ。
周囲の登場人物に試しにリアクションをさせるといい。
ケン「俺はジョーを助ける!」
甚平「え?」
甚平「流石兄貴!溜飲が下がるぜ!」
さあどっちだ。「え?」だろう。
甚平はケンシンパだから、竜にリアクションをさせてみよう。
ケン「俺はジョーを助ける!」
竜「流石!溜飲が下がるぜ!」
いやいやいや、やはり「なんでや?」だろう。
このように、
滑っているかどうかは、
周囲の登場人物にリアクションをさせてみるとチェック出来る。
物語を書くという行為は、
自我の分裂の行為である。
ある人物とある人物との会話は、
あなたのある人格とあなたのある人格との会話だ。
人格という言葉が語弊があるなら、
あなたの中の「ある考え方」と、「別の考え方」の会話である。
ある考え方が、別の考え方にどう見えているかは、
ある考え方の中からは分からない。
その時は、別の考え方からその考え方を眺めてみるといい。
ケンの言動が滑っているかどうかは、
ケンの中からは分からない。
ケンの周囲の登場人物から見て、滑っているかどうかだ。
そして、クライマックス、ケンは滑っている。
それは、ケンの私情を誰も共有出来ていないからである。
共有出来てないところでの勝手な言動だから、え?となるのだ。
あなたの中には、複数の自我がいる。
自我に語弊があるなら、
あなたの中には、様々で多角的な視点がある。
ある見方から正しかったとしても、
別の視点から見たら、
正しくないことは沢山ある。
ある考え方は、その別の視点を、納得させなければならない。
こうしたいねん
なんでや
○○だからや
なるほど!分かるわ〜
が正しい納得や感情移入、
こうしたいねん
なんでや
○○だからや
え?なんでや
○○やるで!ドヤ!
なんでや寒いわ
が滑ったものである。
逆に言えば、物語とは、
「○○だからや」を、他の人全員に納得させるまでの過程だとも言える。
プロットには理屈がいる、というのは、
そのような理屈がいる、ということかも知れない。
全体で、結論を出すようにしているからだ。
(逆に、クライマックスで主張を演説するのは手遅れなのだ。
全体を踏まえた上で、クライマックスが来るのだから、
クライマックスで説明しているのは手遅れである)
さあ、あなたの主人公は、ドヤ顔で滑っているか?
周りの登場人物は、反対していないのか?
反対しているなら、納得させなければならない。
それをコンフリクトという。
コンフリクトとは、納得するまでの過程のことである。
滑ったドヤ顔を書くのがあなたの目的だろうか?
そうではないのなら、周囲(=あなたの中の他の視点)に、
リアクションをさせるといい。
2015年04月01日
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