前記事からの続き。
話が上手くない人とは、
つまり、滑っているかに気づかない人だとも言える。
あなたの中には、多角的な視点があるだろうか。
あることに対して、
こうだと思ったり、全く別のことを思ったりするだろうか。
大多数はこう思うだろうなと予測したり、
自分は大多数と違ってこう思う。
何故ならこうだからである、
などと自己分析出来るだろうか。
一つしか見方が常にないとか、
自分が思うことを他人が理解できないのが分からず、
いつもずれていると言われ、何故なのか分からない、
ような人は、話を書くのには向いていないと思う。
ある主張があるとしよう。
それに反論してみよう。
それに再反論しよう。
それに反論しよう。
そんな、一人ディベートが出来ない人は、
話を書くのには向いていない。
世の中に様々な見方があり、
どれも自分が正しいと思っている、
という考え方を、内面化していないからだ。
あることを誰かがしたとき、
十人登場人物がいれば、十人とも反応が異なる。
性格が違うからではない。
考え方や立場が異なるからだ。
自然環境は破壊しても構わない、
雨が降ってきたらビニール傘はパクっていい、
人はすべからく努力すべきである、
などに反論してみたまえ。
それに、これらを主張する立場から再反論してみたまえ。
つまり、頭の中で喧嘩させてみよ。
世の中の色んな考え方に、
あなたが成る程と思ったり、同意できないと思うだけでなく、
こうであれば納得がいくとか、
この部分が妥協できないなどの、
変形をしてみなければならない。
あるいは、これを同意する人は○○も良しとするのか、
などを想像出来なければならない。
頭の中で、分裂するのである。
喧嘩する二人に。三人に。四人に。リアクションする十人に。
完全に分裂してしまうと、本当の人格障害になってしまうが、
物語を書く上では、
ある考え方に対して、
それぞれの一貫した考え方や立場からの、
別々の見方をする、
というシミュレーションが出来なければ、
物語を書くことは出来ない。
何故なら、物語とは、
コンフリクト、
すなわち、異なる立場や考え方のぶつかり合い(=喧嘩)だからだ。
その考え方から見た相手の考え方を、
あなたは想像出来なければならない。
頭がこんがらがる。
しかし我々が物語を見ているときは、
誰もがやっていることだ。
極端な例で、
日本に来たアメリカ人が、習慣や考え方の違いで、
ハチャメチャになるコメディを考えよう。
こいつはアメリカ人だからこうしてしまう、
こういう考え方がアメリカでは当たり前だからこうする、
ということと、
日本の常識との食い違いの、
面白おかしさを描くはずだ。
それを見る過程で、
アメリカ人はこう考えるのかという発見をしたり、
我々の常識にも問題があるのだな、
と分かったりするものである。
それは、アメリカ人と日本人の考え方の違いを分かっていないと、
描くことが出来ないだろう。
違いを際立たせれば際立たせるほど、
それは面白くなるはずだ。
同じものを見て、アメリカ人はこう考え、日本人はこう考える、
などが予測出来ないと、面白くなることはないだろう。
そうでない話でも、同じことだ。
アメリカ人と日本人を、
登場人物AとBにすればいいだけだ。
アメリカ人の考え方、日本人の考え方を、
Aの考え方、Bの考え方、
のようにすればいいだけだ。
人生経験が必要だ、というのは、
その考え方の違いに、リアリティーがあるかどうか、
ということに尽きるのだ。
若い人がコメディを書くのは、
考え方の違いにリアリティーがなくても良い
(考え方の違いをハチャメチャに出来る)からである。
ある程度人生経験を積めば、
考え方の違いにリアリティーを持たせられる程度には、
人の考え方の違いについて、
相対的になれているだろう。
あなたの中で、
様々な見方、考え方があるだろうか。
それがお話の素である。
それを上手く使いこなせない人は、
お話を書くのが下手かも知れない。
2015年04月01日
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