この仮説を認めるならば、
我々が自分の思うままにストーリーを書いたとしても、
「観客の中にあるストーリーのテンプレ」のほうが強い、
ということになってしまう。
観客は、
放っておくと、自分の理解できるストーリーの中に、
仮に別のストーリーであっても、
収斂させてしまう、
という仮説を唱えてみる。
それにはいくつかのテンプレがあり、
物語原型などと呼ばれたり、
神話やお伽噺の中にあるパターンに似通っている可能性が高い。
それは人類の機構が持つ必然的な何か、
つまりDNA的な何かである可能性が高い。
それを明らかにするのは別の人に任せるとして、
実戦的にはそれが全てではない。
他の有名な話がテンプレになっていたり
(ドラゴンボールやスラムダンクとか。僕らの時代ではドリフやひょうきんだ)、
以前の名作を下敷きにしていたり
(AKBはおニャン子をよりえげつなく改良したものだ)、
身近なよくあることや有名人の話、
自分の好きな話、
などの、人によって違いのある、
テンプレに当てはめて人はストーリーを受け取りがちだと思う。
すぐ想像できることは、
我々語り手が未熟ならば、
人は簡単に自分のテンプレに当てはめて理解する、
すなわち、「誤解が起こる」ということだ。
あなたのストーリーが何故表現意図に対して、
上手く伝わらないかの答えのひとつがこれだ。
あなたのストーリーテリングが未熟で、
観客のテンプレ理解のほうが優先され、
そちらに曲げられてしまうのである。
例えば、「いけちゃんとぼく」の序盤の未熟さゆえに、
この話は暴力を描くジャンルと思われてしまう。
現実の厳しさと夢想の面白さを対比して、
夢想から現実への着地点を見つける話なのだが、
単に痛い物語と誤解されてしまいがちだ。
ここを誤解されると、あとあとのテーマが効かないのだ。
それはひとえに僕の未熟さゆえに還元される。
あなたは、
上手く誘導しなければならない。
観客のテンプレ理解に陥らないように、
巧みに誘導しなければならない。
これの物凄い簡単な現実が、
「スタンド・バイ・ミー」のミッドポイント手前、
焚き火の前で作り話をするシーンに、
とても上手く描かれている。
とある話(パイの大食い)を、
焚き火の前でしようとする主人公に、
観客である友達は、
自分の理解できるストーリーの形で茶々を入れる。
軍人オタクは軍人関係の話として理解しようとし、
食いしん坊は食いしん坊として理解しようとする。
そうじゃないぜ、こうなんだ、
という、誤解を避ける誘導が、
序盤の語りだと思うと良いだろう。
主人公がどうやってその誤解を避けて、
本筋へ観客を乗り込ませたか。
焦点である。
話の中の主人公に焦点(しなければならないこと)が生まれたその時だ。
それ以前の日常描写パートでは、
自分の理解できるテンプレに当てはめて、
自分側に引き寄せようとざわざわしていた観客が、
話の中に入ってくる瞬間だ。
それが生まれたとき、自分の理解できるテンプレは置いといて、
とりあえず話に入ろうと思うのだ。
(ここのカット割りは本当に上手)
また、話の途中でも、
観客は自分の理解できるテンプレに話を寄せたがることを、
この映画は上手く示している。
軍人オタクはやっぱりクライマックスに軍人を期待していたり、
食いしん坊は食うことにしか共鳴していなかったり。
ホントに分かってたのかこいつら、とやや不安になる感じがいい。
(リバーフェニックス演じる親友だけが、
話をちゃんと理解している様が描かれる)
簡単に示しているとはいえ、
これはストーリーテラーと観客の関係について、
とても良く戯画化して描かれた例だ。
観客は自分の理解できるテンプレに当てはめようとする。
ストーリーテラーは、その誤解を避けながら、
自論を展開しなければならない。
このことから言えるのは、
焚き火は目の前に観客がいるからその場で修正可能だが、
脚本や小説はそうではないから、
自分の中に、バーチャル観客を用意しなければならない、
ということだ。
内なる観客とか、内なる検閲者と呼ばれる、
もう一人の自分だ。
もう一人の自分、というのは語弊があって、
僕は一人じゃダメだと思っている。
様々な立場の様々な理解のレベルがあって、
様々なテンプレがある以上、
バーチャル観客は一人でなく集団でなければならないと思っている。
そのざわざわをねじ伏せるように、
物語は語られなければならない。
ねじ伏せるというと喧嘩腰だが、
実態はその逆で、
ワイワイ自分勝手に解釈しようとする観客を、
一つの焦点に興味を集めさせればよいのだ。
イメージは、暗闇だ。
暗闇で人は不安になる。
自分なりの解釈をしだす。
自分理論で暗闇のストーリーを作り出す。
そこに火をともす。
人は火を見る。
火を動かす。その先を見るようになる。
暗闇で考えた自分なりの解釈は取り敢えず保留にして、
火の動く先が見えて、
それが興味深い限りは、火を見続ける。
飽きてきたり、火が見えなくなったら、
人はまた暗闇を見出し、自分理論に戻ろうとする。
再び火に注目しない限り、
この闇はこういうものであった、と、映画館を出て行く。
こうして、ストーリーテラーと観客の齟齬が生まれるのだ。
我々が、火に注目させられなかったことで、
誤解が生まれるのである。
火とは、焦点とか、その場の面白さの比喩だ。
我々がその火に注目させ続ければ、
人は闇を見る暇がなく、
余計なことを考えることもないのである。
最初にツカミを、というコツは、
暗闇にまず火をともせ、ということを言っている。
これは何についての物語か、
まず興味を持てれば、余計な自分テンプレを持ち出すこともないからだ。
「いけちゃんとぼく」の序盤の失敗はまさにここにある。
最初の焦点が遅い。
学校サボったのが父にばれた、または空手教えて下さい、
までが長い。
ここに至るまで、火をともせず、暗闇に浸す時間が長かったので、
人は自分テンプレを発動させてしまいがちなのだ。
曰く、絵本と違うとか、暴力だらけとか。
絵本のほのぼのしたものを期待してくるのだからしょうがない。
それに対して、現実はこうなのだよ、と一発で示し、
最初の焦点、例えば「一発殴り返す試みをする」なんてのを、
開始5分から8分までにやるべきだったと、
今では考えている。
そのあとやっぱり難しくて夢想に逃げる、
みたいな手もあったのに。
一方、成功した「風魔の小次郎」では、
早々に焦点が示される。
学園の危機とそれを救う小次郎の動機「メルヘンだなぁ」である。
それが物凄く面白い感情移入出来るものである必要はない。
まず火をともすことが重要だ。
その火が途絶えず、そのまま八将軍召集され、
火がともし続けられているため、
観客は暗闇に迷って自分テンプレを出してくることもないのである。
焦点。それを維持。
飽きてきたらターニングポイントで焦点の目先を変える。
それをしながら、
ストーリーテラーは伏線張ったり、
ギャグを言ったり、
いい台詞を言ったり、
泣かせたりハラハラさせたりしなければならない。
あっと言わせたりなるほどと言わせなければならない。
過酷だ。
でもそれは、とても面白いことだと思うよ。
ストーリーテリングは、人類がたどり着いた、
最高の芸術のひとつだと思っている。
絵画や彫刻みたいに、ブツとしての価値じゃないのが、
評価が難しい所なんだけど。
暗闇に火をともせ。
まるでてんぐ探偵のコピーみたいになってきたが、
そういう本質的なことを、僕は書いているつもりだ。
2015年04月04日
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