2015年04月06日

愚者の改訂と賢者の改訂

何故リライトが失敗しやすいのか。
何故最初は面白かったものが、
改訂を重ねるたびに詰まらなくなって行くのか。
良くすることが目的の筈なのに。

それは、愚者の改訂をしてしまうからだ。


あなたはタクシー運転手だとしよう。
夜、銀座で客を乗せた。

客「千葉へ」
運転手「わかりました。千葉へ向かいます」
客「どれくらいかかる?」
運転手「30分ぐらいで、5000円ぐらいですかね(時間と値段は適当です)
    ○○道から○○道を行きますね。もしご希望あったら別の道でも」
客「まかせた」
   15分後。
客「すまん、横浜へやってくれ」
運転手「はい? 今順調に○○川を渡って、○○に入った所ですが」
客「そんなの知らん。横浜へやってくれ」
運転手「ここから横浜へですと、大分迂回しないと駄目ですね」
客「30分、5000円は守ってくれ」
運転手「いや無理ですよ。あと15分で横浜につくわけないでしょ」
客「30分、5000円で横浜だ」
運転手「分かりました。がんばります」
客「1時間もかかったではないか。しかも8500円だと?」(時間と値段は適当です)
運転手「これでも急いだほうですよ。道の組み立ては全部変わったし、
   そこは褒めてくれないんですか」
客「30分、5000円と言った筈だ」
運転手「わかりました。3500円は自腹にします」
客「使えん運転手だ。二度と使わん」
運転手「(上司に)あの客殴っていいですか」
上司「クレーム入って問題起こしたから、おまえクビな」
運転手「上司が守ってくれないんだ…だっておかしいですよ」
上司「知らんがな。自己責任」


嘘かと思われるかも知れないが、
これがCMの現場では、普通に起きていることだ。

デジタル以前は、バブル時代から続く、
うなるほどの金と余裕のあるスケジュールがあった。
デジタル時代になり、スケジュールと金がなくなり、
しかも景気は後退して予算は1/3以下になり、
変更の程度はひどくなっている。責任者が増えたことも大きい。
(昔なら千葉から横浜には行けなかったが、
今はデジタルで出来るようになったからだ)

それでもニコニコしている運転手だけが、職を失わず細々と頑張っている。
これが今のCM界の現状だ。

CMは最も人目につく。
80年代や90年代はテレビに最高にパワーがあり、面白いCMを競って作った。
それが企業のステータスでCI(コーポレート・アイデンティティ)だった。
流行を作り、文化や娯楽を牽引した。
今はクレーム対策しか考えない、
娯楽や文化とはほど遠いものになりつつある。(テレビそのものもだ)

ひょっとすると若い人には、
テレビやCMや番組が世間の王様であったことを、
知らない世代が増えてくるかも知れない。
それほど今テレビやCMはどん底だ。(そしてもっと悪くなるだろう)


何故か。
愚者の改訂をするからである。


愚者の改訂とは、
「自分から見て簡単なものを直す」ことを言う。(僕の命名)

たとえば中間発表を見て文句を言う。今上向きになっていても、
そこだけ見ていますぐ改善せよという。
全体の中の部分という文脈でものを見れず、見たまんまを全てと思って、
改善せよという。(そこだけ良くしても駄目なのだが)
全体の段取りを知らず、手遅れの改訂の指示をする。
今どの段階のことをやっているか把握していない。

しかも、難しいことに手を染めず、
自分の出来る範囲でしかオペレーションの指示をしない。

ちょっと文言を変えればいけるんじゃないか、とか、
あれとあれを逆にしたらいけるんじゃないか、とか、
出来るだけ最小限のオペレーションが、
被害を最小限に食い留めると思い込んでいる。
難しいことをしたら、余計なコストがかかるからだ。

これが愚者のやり方である。


タクシーの例に戻れば、
千葉とか横浜とかの、「目的地を言うこと」が、
客にとって最も簡単なオペレーションである。

その先の、道を決めたりすることは、難し過ぎて出来ない。
(だからお任せという。お任せには二種類あって、
あなたに任せたので自分が文句を言う権利はない、というものと、
分からないから分かったふりだけする、の二者がある。
大抵は後者である)

だから、それ以上のオペレーションはしないのだ。
実際それ以上のことを決断しなければならないのに、
それ以上のことを、知らないふりをする、または知ったふりをする、
または中途半端な知識で介入することが、愚者なのである。

それらの責任が自分に及ぶのを回避しようとして、
なるべく短いオペレーションでタッチしないようにすることが、
愚者なのである。


愚者は、自分のなした短いオペレーションが、
どれだけ的確か、また愚かかを自覚出来ない。
なぜなら、「最小限しか触っていない」と信じているからだ。

にも関わらず、タクシーは千葉へ向かい、横浜へUターンせざるを得ない。
「そんな大変なこととは知らなかった」と、
必ずその愚者は言う筈である。




「テーマを変える」というのは、とても大変なことだ。
思いついて、練った上で完成した「初期のトライアングル」を変更することに他ならない。

つまり、初期のトライアングルの「練り」にもう一度戻って、
「それ以上ないベストを思いつく」ことをやり直さなければならない筈だ。

にも関わらず、
現在のCMの段取りでは、
完成間際になってキャッチコピーが変わることは、かなり良くあることだ。
コピーこそテーマであり、その話の根幹であるはずなのにだ。

それは、愚者だからである。
千葉に行くタクシーを、横浜に行くように指示するからである。
我々は千葉に向けて全力疾走しているのに、
あと1メートルで目的地、というところで横浜でした、
と言われるのだ。


千葉にするか横浜にするかは、出発前に決めることだ。
どんなに簡単なオペレーションだとしても、
それを変えることは最初のトライアングルの練り直しを意味する。
それを知らない愚者が、
「簡単に変えられること」から順に変えて行こうとする。

愚者は二重に愚者だ。
簡単に変えることは簡単に直せることと思うことと、
無知なことの二重にである。






ここまで極端なことではないが、
リライトで起こりうることは、これの相似形である。

「ちょっとした直しで劇的に直せないか」
「魔法のようなリライトの方法があるのではないか」
とあなたが誘惑に負けるのは、
愚者の改訂になることうけあいだ。

「直したい私」と「直さなければいけない私」の二者がいる。
その心理的拮抗が、愚者の改訂を呼ぶ。


リライトでは、現状の確認と、目標の確認が大事だ。
「それを直すには、どの段階のものを直さなくてはならず、
それ以降のものは全直しになる」という正しい判断が出来ることが肝要だ。

それは面倒だ、コストがかかる、と思う心が、
「最小のコストで最大の効果が得られないだろうか」
と考えるのだ。
その安易な思いが愚者を呼ぶ。



残念ながら、物語をつくる行為に、
効率とかコストパフォーマンスはない。

熱力学第一法則である。エントロピーは増大する。
エントロピーを減少させる、すなわち秩序をつくるには、
それ以上のエネルギーが必要だ。
大きな変更は、大きなエネルギーがいる。

たとえばテーマを変えるのは、
文字を書き換えるエネルギーでは済まない。
基盤のトライアングルを変える行為だ。
最小のエネルギーに見せかけて、最大のエネルギーを浪費しなければならない。

ここまで戻らなくても、
どこかの段階に戻ることは、それ以降注いだエネルギーを全て、
もう一度注ぎ直さなければいけないことを意味する。


賢者の改訂とは、
最初には、改訂をしなくて済むように各段階で確認すること、
次善には、そのエネルギーを把握した上で、
一からやり直せるスケジュールを見積もることを言う。

もし全面リライトするほどのエネルギーが必要なら、
新しく別のものをつくってしまうほうが良い。
その判断が出来る者を、賢者と呼ぶ。


僕はリライトを、内臓の手術によくたとえる。
どれだけ内臓を入れ替えたら、どれだけ負担がかかって、死ぬかは、
その内臓を一から組み上げた人にしか分からないだろう。
判断出来るのは、
内臓を一から組み上げる能力のある人だけだ。

つまり、この内臓をこのように入れ替えるべき、と判断出来るのは、
作者か、内臓の地図が分かっている人だけだ。

千葉方面に向かった車を横浜方面に反転させると、
道の組み立てが全然違うことになるというのは、
道を知ってる人にしか分からない。
(まあ大体の人は知ってるだろうけど)


賢者の改訂とは、
「一端精算しましょう。今から横浜方面の車どっかで捕まえてください。
ハイ一回降りて。また乗って。改めて横浜に向かいますが、横浜でいいですね?」
と、一端リセットすることではないだろうか。




リライトでは、以前の稿に引っ張られることはよくある。
前の稿が良く出来ていればなおさらだ。

リライトの方針を一端横浜に決めたのなら、
千葉への道は忘れることだ。

途中のものを再利用出来ない。もう道が違うからである。
(これを再利用しようとする貧乏根性が愚者である。
そうして、切り貼りの醜い九龍城が出来上がるのだ)


もし最初のトライアングルまで戻るのなら、
ビジュアル、ストーリー、テーマのベストの組み合わせを練り上げ、
最初から作り直す覚悟をすることだ。

それは最初のトライアングルでも同じだし、
途中のどこかの段階でも同じである。
「その段階からきちんとやり直すこと」をやらない限り、
愚者の改訂に頼りたくなる、
悪魔のささやきが必ず訪れる。



僕は、出来うるなら、
途中で降りて一端精算する文化を、根付かせたい。
そうでない限り、
いつまでたっても、
3500円自腹、納期遅れ、上司はクレームに逃げ腰、
という事件は発生し続ける。

そうやって、元々千葉に行くのが上手な運転手が死んで行く。

死なないのは、
笑顔で心を殺して心を病み続ける者か、
道が違ってても楽しいという鈍い者だけだ。
(うんこ映画実写ガッチャマンの脚本家や監督とかね)
posted by おおおかとしひこ at 19:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
タクシーのたとえ話、非常に共感しました。
自分の仕事でもこれと似たようなことが発生しておりましたので・・・(笑

自分はCMとは遠い業種でしたが、横浜行った後次はやっぱり大阪行ってくれと仰るようなお客様ばかりでした。

なんとかならないんだろうか・・・いや無理かと半分諦めて業界を去りましたが、CMも(というよりもどこにいってもそういうお客様はいらっしゃるようですが)同じだと聞くと何といいますか、自分だけがこんな目に遭ってるわけじゃないんだからガンバらないとな・・・という気持ちになりました(苦笑


こちらには定期的にお邪魔させてもらっていますが、技術面だけでなく精神面でも得るものがある、素晴らしいブログだと思います。

これからの更新も楽しみにしております。
Posted by KYKY at 2015年04月07日 18:54
KYKY様コメントありがとうございます。

遡れば、大日本帝国はそうやって負けたそうです。
司馬遼太郎は、幼少の体験から「日本は何故負けたのか」を生涯のテーマとして考えていて、
ようやく書く時になって調べてそのようなことが分かり、書かなかったそうです。ばからしくて。

何故そのような事が発生するのか、について考えていましたが、
「間によく分からない人が入っているから」という結論に至っています。
客とタクシーの間に、上司が入っているのがこのたとえ話のポイントです。

「事件は会議室じゃなく現場で起こってる」は「踊る大捜査線」の名台詞ですが、
「事件は間に愚者がいる」ことで起こっているような気がします。
個人タクシーなら「降りろバカ!」と言えそうですしね。

そもそも脚本論を書いているのも、
「作劇の秘密を可視化して、バカなプロデューサーにすいませんでしたって言わせたい」のも、ひとつの理由です。
世の中に作劇の秘密が知れ渡れば、そういった悲劇は起こりにくいのではないか、という、後世に種を撒くことも含みで。

トライアングルメソッドは、なかなかシンプルに可視化できたので、
なかなかいいものではないかと思っています。
Posted by 大岡俊彦 at 2015年04月07日 19:42
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