よく言われることだ。
見たことのないビジュアルが大事だと。
ビジュアルインパクトが大事だと。
分かりやすく斬新なビジュアルが大事だと。
そんなものがポンポン生まれる?
あるいは、既存のものと既存のものの組み合わせがアイデアだとも言う。
それも本当かなあ。
ただ組み合わせりゃ良いってもんじゃ、ないよね。
ビジュアルの正解の話。
昔僕は映画に詳しい人として、
後輩から相談されたことがある。
「『見たことのないビジュアルをつくれ。
しいては、そのビジュアル資料を持ってきてくれ』
と言われたのですが、
見たことのないビジュアルを知りませんか?」
と。
何かのとんちかと思った。
資料として提出出来る(つまりあの映画の○○の場面など)
のは、僕が見たことのあるビジュアルであり、
見たことのないビジュアルは、見たことがない。
にも関わらず、見たことのないビジュアルを持ってこいと。
一通り考えて、
「ではその虎を屏風から出してください」と答えたような。
この矛盾は、
常に「求める人」と「作る人」の解離にあると思う。
求める人は、「自分の」見たことのないものが見たいし、
作る人は、「自分の」見たことのないものを作るべきだと思っている。
前者が素人なら、後者の勉強している様々な映像の、
殆どは見たことがないかも知れない。
これは料理に例えると分かりやすいかも知れない。
とある食堂に来た外国人が、
「私の食べたことない料理を出してください」と言っているのと同じだ。
我々はシェフとして聞くと思う。
ご飯と味噌汁は食べたことありますか?
あなたはどこの国の人ですか?
日本でどんな食べ物を食べましたか?
その人にとっては唐揚げ定食が答えかも知れないし、
ビーフストロガノフが答えかも知れない。
イスラムの人なら豚料理はなんでも正解だ。
素人は、自分が見たことがなく、
驚きをもってそのビジュアルを迎えられればそれでOKだ。
しかし我々は玄人筋である。
歴史上すでに出たものをパクるのはオリジナリティーの神に反する。
オリジナリティーの神につかえていない邪教徒が、
素人の知らないものをパクって驚かせている。
商社とか輸入業の多くは、
そういうことで世の中の新しい流行を作ってきた。
アメリカヨーロッパ、
ちょっと前はアジア(タイ、ベトナム、台湾あたり)や東欧、
最近では北欧の、
面白いものを紹介することで。
見たことのないビジュアルに対するひとつの答えは、
マイナーだが凄いものを発掘して、
それをパクることだ。
それはいずれ尽きる鉱脈だ。次の鉱脈が見つかれば延命出来るだろう。
例えばペプシ桃太郎のパクり元は、
ターセムの映画(主に落下の王国)、
プリンスオブペルシャ(砂漠とパルクール)、
タイタンの戦いと風の谷のナウシカ(鬼のビジュアル)、
どろろまたは47ローニンまたはロードオブリング(ロケーションや砦)、
パイレーツオブカリビアンまたはマスターオブコマンダー(上陸するあたり)、
キルビル後編とウルヴァリンサムライ(宮本武蔵編)、
トランスフォーマーとおおかみこどもの雨と雪(犬編)だ。
似た他の映画かも知れない。
(以前映画を再編集してビデオコンテを作るのが商売の先輩に、
二人でわざとこの映画を再編集して、音楽rock youをかけて、
ほぼ同じカット割りのムービー作ろうぜ、
と悪意の暇潰しをしようとしたが、忙しかったのでやめた)
これらの知られていないビジュアルを鉱脈とし、
パッチワークのように組み合わせれば、
「既存のものと既存のものの組み合わせ」
の法則に従う、
「素人が見たことのない」ビジュアルが出来上がる。
我々玄人筋が鼻で笑うなか、
素人は度肝を抜かれ、騙された。
(このブログに、いまだに「桃太郎 映画化」で検索してたどり着く人が、
毎日数人いる)
何故ペプシ桃太郎のビジュアルは斬新だったのか。
ロケーションや衣装やデザインは、
全く新しいものではない。
「それらが、桃太郎の話のビジュアル」という点において、
新しかったのだ。
「すごい桃太郎」という点が新しかったのだ。
つまり、ビジュアルが関係する「意味」が、
「見たことのないビジュアル」を決めるのである。
ビジュアルが視覚だけの芸術だと思っているのなら、
あなたはビジュアルのことについて考えが浅い。
ビジュアルは、
それを「解釈する側」の中で爆発を起こすのである。
我々が見たことのない、宇宙人の芸術は、
恐らく我々に恐怖しかおこさないだろう。
(それがインパクトにはなるだろうけど)
何故なら、「理解できない」からである。
木星の写真は不気味だ。あの赤い目は不気味だ。
あれが台風なのだと理解すれば、
幾分美しいと思うようになる。
ところがあれが地球より大きいと言われると、
また不安になってくる。
理解を越えているからである。
ビジュアルは、我々の「理解」のきわにあるのである。
例えばアウトサイダーアートという、
自閉症や統合失調症の人々のアートを見てみるとよい。
我々とは別の原理の「理解のしかた」がそこにあることが分かる。
そしてやっぱり不安になってくるのだ。
インパクトは抜群だが、
我々の腑に、うまく落ちて来ないからだ。
ビジュアルの芸術は、すなわち、
目による視覚的刺激の部分と、
それを理解する我々の心の間に存在する。
ただ滅茶苦茶なビジュアルを発明しても、
それこそ「意味がない」のである。
さて。
では、素晴らしい物語のビジュアルはどうあるべきか?
答えは殆ど出ている。
「そのビジュアルが何を意味しているか」の、
「意味」の面白さである。
例えばてんぐ探偵のメインビジュアル、
炎の巨人たる大天狗との出会いは、
この物語の構造を絵的に象徴している。
だから意味があるのだ。
巨人と少年のビジュアルなら、ワンダと巨像でもあっただろう。
巨神ゴーグでも、ジャンポーグAでも、マグマ大使でもあっただろう。
それらと違い、
このビジュアルは、ただの巨人と少年の出会いだけでなく、
伝統妖怪と新型妖怪「心の闇」の狭間に主人公シンイチがいることや、
闇を払うのは炎であることも意味している。
だから、キービジュアルとして意味があるのだ。
ついでに、切り絵風のテイストが、
今なら新しいかも、と思っている。
ペプシ桃太郎のデザイン的に優れたビジュアルは、
何を意味しているか。
凄い桃太郎しか意味をなさず、
そのテーマ「自分より強いものを倒せ」に、
なんら関与していない。
だからクズなのである。
僕が中身がないという批判は、
その優れたビジュアル(音楽も)が、
意味(テーマ)と噛み合っていないこと、
噛み合ってるとしたら「凄い桃太郎」という、
別の意味をなしていることを、言っている。
ビジュアルとしての力強さ、インパクトだけの差ではないのだ。
てんぐ探偵の切り絵が、桃太郎に勝ってるとも負けてるとも、
ここでは言うつもりはない。
両者の差は、テーマと噛み合ってるかどうかなのである。
本来、テーマとストーリーとのトライアングルとして機能すべきビジュアルが、
ビジュアルだけ一人で暴走していることを、
僕は批判しているのだ。
(僕が一番許せないのは、ACCのグランプリを受賞したのがそれで、
その審査員長がこの作品をつくった会社の社長という点だ。
マッチポンプなのだ)
てんぐ探偵のメインビジュアルの切り絵が凄いビジュアルかどうかは、
どうでもいい。
「ストーリーを表し、テーマを表しているビジュアル」が、
良いビジュアルである。
それが、「見たことのないビジュアル」のベストだ。
つまり、見たことのないストーリー、見たことのないテーマを、
表さない限り、
それは写真集でしかなく、
物語のビジュアルの意味はないのである。
見たことのないビジュアルは、存在する。
見たことのないストーリー、テーマとセットで。
ストーリーはストーリー、ビジュアルはビジュアル、
と分けて考えてはならない。
あなたはビジュアルの専門家になる必要はない。
ビジュアルの表す意味を、見たことのないものに作り上げる必要がある。
2015年04月08日
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ここのジャンポークAってジャンボーグAの事ですかね。
スマホのフリック入力のミスであります!
ジャンボーグAぐらい予測変換しないAndroidのせいであります!
昭和ヒーロー辞書とか映画関係辞書インストール出来るのなら、教えてくれると助かります!
毎回「ターニングポイント」を補完してくれなくて、一文字一文字打つのが辛いです!
フリック入力のミスでターニングボイントになってるかも知れません!
関係ない愚痴ですが、あれだけの回数シンイチと入力してるのに、10回に1回は真一を第一候補にしてくるWinに腹立ちます!
赤い波動拳か!