2015年04月12日

「シュール」は逃げに使われる

本当の意味でシュールを追求してる人は別として、
大抵の未熟な書き手は、
面白いことを書こうとして、
上手く出来なくて、
シュールに逃げて誤魔化すことが多い。


これシュールで面白いでしょ?
という作者は、
シュール以外の、
面白いことを書く能力がない。

ないと断言しよう。
ないから、せめてシュールに逃げるのだ。


8.6秒バズーカーのラッスンゴレライが、
叩かれまくっている。

落寸号令雷のあたりはネタに過ぎなかったのに、
チョットマッテ号の発見あたりから、
広島の平和の像とポーズが同じとか、
8/6の意味だとか、ローリングサンダーが原爆作戦名とか、サインがキノコ雲とか、
こじつけにしてはあまりにもな材料が揃ってきて、
もう反日野郎にしか見えなくなってきた。


もしこれが、全部こじつけだとしよう。

だとしても、人間には、
シミュラクラ現象というものがある。

何でもない三つの点を顔と認識してしまうアレだ。
心霊写真の殆どはそれだと言われている。

シミュラクラ現象は、単純に三つの点の認識の視覚の話だが、
我々の脳内でも似たようなことが起こる。

意味のないことに、意味を見いだそうとする機能だ。


人は長いこと無意味に晒されるのが苦痛である。
それに、意味を見いだそうとする生き物なのだ。

神の存在は、ひとつにはそのような脳内が作り出したものだと思う。
自分に無意味で無慈悲な不幸が起こり続けたとき、
「これは神が自分を試しているのだ(神の試練と訳されるが、英語ではtestだ)」
「不幸な者こそ喜ぶべきである」
などと考えることが、その証拠だと僕は考えている。

幽霊もそれに含まれる。
「あとで確かめようのない、説明のつかない不思議な現象」が、
たとえ見間違いだとしても、幽霊のせいにされることが多い。
幽霊は、いまここにいるものではなく、必ず過去にいたものである。

人は、説明をつけたいのだ。
それに説明のつかない理不尽なものを、神とか幽霊のような、
擬人化したもののせいにすることで、強引に説明をつけて納得するのだ。
(本当に神や幽霊はいるかも知れないが、区別がつかない)



本当の意味でのシュールは、
実は意味のないことをすることではない。
シュールは現実を異化することにある。
普通だったらこうだろうという世界を、
その通りにしないことで、
別の意味へねじ曲げることが、本当の意味でのシュールだ。
(昨日のジャケ買いタイトルと似ている)

ダリの絵からシュールレアリズムははじまったという。
実はダリの絵は、かなり分かりやすく、
現実を異化している。
歪んだ時計は、「時間とはカッチリしたもの」という現実を歪め、
「時間に縛られることの馬鹿馬鹿しさ」を意味している。

夢の中の再現とか、無意味に思えるのはあくまで絵の画風に過ぎず、
それは意外と意味が分かりやすいのだ。

ここから出発したシュールレアリズムは、
確かだと思われる現実を、そうでもないのだぞ、
と脅す為にあるのである。

僕が好きな吉田戦車の「伝染るんです」のベストネタは、
「新しい字を発明しました」と、
黒板に「あぬ(二つの字が合成されたような字)」とチョークで書き、
「どうやって読むんだよ」と突っ込まれると、
吹き出しの活字で「あぬ(二つの字が合成されたような字)」と言う、
というやつだ。
漫画に音声がないこと、
手書きの文字が活字になることで権威化されること。
これらを異化して見せたのだ。

80年代はパロディの時代だ。
それは、既にあるものをパロディにしたてあげることで、
シュール化し、異化することが面白かったのだ。
全部が相対化されて、90年代は、
それを知らない次の世代から文化が生まれていったが。


勿論、シュールレアリズム全体が、異化そのものが目的かどうかは何ともだ。
シュールレアリズムをちゃんとやってる人と話したことはない。

しかし、笑いにおけるシュールレアリズムならば、
それは異化以外のなにものでもない。

何故なら、人は解釈を求める生き物だからだ。
それそのものを笑うのが本来のシュールな笑いだからだ。



ラッスンゴレライは、シュールでも何でもない。
ただの無意味である。
子供がちんこうんこと無意味に言いたい、
いわばスキャットや早口の、技術のないバージョンである。
足踏みと手拍子という、お遊戯レベルの技術だ。
韻を踏むことすらやっていない。

つまり、稚拙な無意味なのである。

笑いの下手な作家は、すぐにシュールに逃げる。
意味のわかる面白いことを書く能力がなくて、
無意味に逃げる。
しかし本当のシュールは、意味を裏からひっくり返す、高度な笑いだ。
ラッスンゴレライは、本当のシュールではなく、
下手な方の無意味だ。

だから子供は騙せても、我々大人は誤魔化せない。


そして、我々はそこに、「何をどう異化しているのか」を読み取ろうとする。
神や幽霊を無意識に探すのだ。
たとえ、ラッスンゴレライにまるで意味がなかったとしてもだ。

彼らが猛烈に原爆関係をネタに封じ込めたかどうかは、
これからの展開で明らかにされるかも知れない。
落寸号令雷だって、意味がないところに、意味を見いだそうとする我々の無意識が、
腑に無理矢理落とす芸に過ぎなかった。


分かることは、
下手なシュールは見破られるし、
ただの無意味には人間は耐えられないし、
無意味にすら、人は意味を見いだそうとすることだ。


笑いの下手な奴は、シュールで誤魔化すな。
バレないと思ってるのは、あなただけだ。

笑いは一番難しい。
あなたが笑いが下手ならば、
リアルな文脈のものを書き、緊張をほぐすときだけ笑いを使う程度にせよ。

笑いは才能だ。
クラスをどっかんどっかん沸かせた経験がない奴は、
ステージを沸かせられない。
仲間を沸かせた程度の奴レベルが、シュールに逃げて馬脚を現す。
posted by おおおかとしひこ at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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