2015年04月12日

主人公は、何に傷ついているのか

物語とは、傷ついた主人公が、
傷を癒し、再び現実へ返り咲くまでを描くものだ、
とも言える。

あなたの主人公は、何に傷ついているのか。
それをどのように癒し、現実へ返り咲く力を得るのか。


この問いに即答出来ないとしたら、
あなたはその面で自分の物語をとらえていない。
その面とは、内面である。


多くの「いい話」では、
他人の親切が主人公を救うことがある。

しかしこれは上手くやらないと、
ご都合主義に陥りがちなことは既に議論したと思う。
(僕が「かもめ食堂」を映画として認めないのは、
皆に認められる過程が、時間経過のご都合主義だからだ)

「私はみじめなゴミではなく、愛されていたのだ」という発見や再確認は、
自我の再確立に重要な要素だが、
それがご都合主義にならないように描くことは重要だ。

コツは、かつてその人に親切をしたから、
お返しが返ってきたようにすることだ。
ただの無私の愛情、例えば母の愛情など以外の、
他人の愛情を描くのなら、これは必須要素としていいのかも知れない。
(逆に、家族愛や恋人の愛情の再確認などは、
よくよく考えると、勝手にやっとれ、という感じになってしまう。
よくよく考えさせないように、感情移入が重要なのだ)


他人からの承認以外に、
自分の傷を癒すことは出来るだろうか。

例えば、
一見不可能だと言われることをやり遂げる、
などが考えられる。
ソロなら特にそれは自分のことそのものだ。
過去に失敗したことへのリベンジが一番分かりやすい。
(過去と現在が同じ状況下で比較しやすいため、
対照的に描けるからである)
かつて成功したことでも現在の変数によって、状況が違うなどの変化球もある。

チームならば、チームを率いることもそこには含まれる。
人間関係を自分でどう調整するかも、傷を癒すことに含まれる。

或いは、他人の傷を癒すことが、自分の傷を癒すことにもなる。
チームを描く物語は、このことを利用していることが多いと思う。


映画は行動だ。
主人公は、自らの行動とその結果によって、
自らの傷を癒さなければならない。
セルフ行動治療というべきか。

そんなこと、現実の人生にはあまりない。
ないからこそ、貴重な話になるのだ。



主人公は、何に傷ついているのか。
それをどのように、行動して結果が出ることで癒され、
再び現実へ返り咲くことが出来るのか。
主人公の心のトンネルは、
主人公の行動によって、
抜けなければならない。
そこではじめて、内面の傷の癒しに、説得力が出るのだ。
行動なき癒しはオナニーに過ぎず、メアリースーである。

ここが描けないと、
単に周囲が認めるご都合主義になったり、
深い内面をただ吐露する演説(未解決)になったり、
内面の物語が全くない、薄っぺらい話になる。

ロッキーに相変わらず戻ると、
その内面の吐露は、ミッキーがトレーナーを申し出る、
ロッキーの部屋でのやり取りによく描かれている。
ここでミッキーと絆が出来たからこそ、
共に闘える仲間を得られたからこそ、
ロッキーは自分の傷を癒すチャンスを見つけたのだ。
(ロッキー本人は無意識かも知れない。
しかし我々観客は、そこにチャンスという意味を、俯瞰的に見出だす)
posted by おおおかとしひこ at 15:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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