物語とは、傷ついた主人公が、
傷を癒し、再び現実へ返り咲くまでを描くものだ、
とも言える。
あなたの主人公は、何に傷ついているのか。
それをどのように癒し、現実へ返り咲く力を得るのか。
この問いに即答出来ないとしたら、
あなたはその面で自分の物語をとらえていない。
その面とは、内面である。
多くの「いい話」では、
他人の親切が主人公を救うことがある。
しかしこれは上手くやらないと、
ご都合主義に陥りがちなことは既に議論したと思う。
(僕が「かもめ食堂」を映画として認めないのは、
皆に認められる過程が、時間経過のご都合主義だからだ)
「私はみじめなゴミではなく、愛されていたのだ」という発見や再確認は、
自我の再確立に重要な要素だが、
それがご都合主義にならないように描くことは重要だ。
コツは、かつてその人に親切をしたから、
お返しが返ってきたようにすることだ。
ただの無私の愛情、例えば母の愛情など以外の、
他人の愛情を描くのなら、これは必須要素としていいのかも知れない。
(逆に、家族愛や恋人の愛情の再確認などは、
よくよく考えると、勝手にやっとれ、という感じになってしまう。
よくよく考えさせないように、感情移入が重要なのだ)
他人からの承認以外に、
自分の傷を癒すことは出来るだろうか。
例えば、
一見不可能だと言われることをやり遂げる、
などが考えられる。
ソロなら特にそれは自分のことそのものだ。
過去に失敗したことへのリベンジが一番分かりやすい。
(過去と現在が同じ状況下で比較しやすいため、
対照的に描けるからである)
かつて成功したことでも現在の変数によって、状況が違うなどの変化球もある。
チームならば、チームを率いることもそこには含まれる。
人間関係を自分でどう調整するかも、傷を癒すことに含まれる。
或いは、他人の傷を癒すことが、自分の傷を癒すことにもなる。
チームを描く物語は、このことを利用していることが多いと思う。
映画は行動だ。
主人公は、自らの行動とその結果によって、
自らの傷を癒さなければならない。
セルフ行動治療というべきか。
そんなこと、現実の人生にはあまりない。
ないからこそ、貴重な話になるのだ。
主人公は、何に傷ついているのか。
それをどのように、行動して結果が出ることで癒され、
再び現実へ返り咲くことが出来るのか。
主人公の心のトンネルは、
主人公の行動によって、
抜けなければならない。
そこではじめて、内面の傷の癒しに、説得力が出るのだ。
行動なき癒しはオナニーに過ぎず、メアリースーである。
ここが描けないと、
単に周囲が認めるご都合主義になったり、
深い内面をただ吐露する演説(未解決)になったり、
内面の物語が全くない、薄っぺらい話になる。
ロッキーに相変わらず戻ると、
その内面の吐露は、ミッキーがトレーナーを申し出る、
ロッキーの部屋でのやり取りによく描かれている。
ここでミッキーと絆が出来たからこそ、
共に闘える仲間を得られたからこそ、
ロッキーは自分の傷を癒すチャンスを見つけたのだ。
(ロッキー本人は無意識かも知れない。
しかし我々観客は、そこにチャンスという意味を、俯瞰的に見出だす)
2015年04月12日
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