2015年04月13日

小説と映画の違い:買い物しようと町まで

サザエさんの一節を例に。
「買い物しようと町まで出掛けたら」

これは小説では可能だが、
映画では不可能な表現だ。


サザエが家を出る。
電車に乗る。
町を歩く。

これは映画では描写可能だが、
彼女の内面を写すことは出来ない。

買い物をしようとしているのか、
スカウトのナンパ待ちなのか、
誰かと会うために移動中なのか、
ただ町経由で次の目的地があるのか、
映像からは区別が出来ない。

彼女がウインドーを見たり、
ワゴンセールの品を手に取ることは撮れるが、
何か別の目的がありながら、
ちょいちょい気になるモノを見てるかどうかと、
区別が出来ない。

彼女の目的、「買い物をすること」は、
外に出さない限り分からない。
家を出るときに「買い物に行ってきます」と誰かに言ったり、
(一人言を猫に言う、などのテクニックもある)
誰かから電話がかかってきて、「今買い物中」と言うことで、
彼女の内面がはじめて外に出る。
映像以外の情報が必要だと言うことだ。
そしてこの二つの例は、どちらも下手な説明台詞だ。
従って、映像では、
買い物しようと町まで出る映像は、プロなら撮らない。


また、こういうことは可能だ。

家の電球が切れる→町→電気屋、
クローゼットの服を見て首をかしげる→町→服屋、
じゅうたんがボロボロ→町→雑貨屋

台詞がなくとも、買いに来たことが分かるモンタージュだ。
この場合、「町」は省略しても構わない。
目的がハッキリしているからである。

つまり、映像は、目的がハッキリしている場合には、
いかようにでも絵を示しながら展開できる。
「何を買うのか分からないが、とりあえず何か買いに来た」
というような、なんとなくの目的を描くことが出来ないのだ。

商店街に買い物かごならば、
今夜の材料をどれにしようか決めないまま、なんとなく歩いていることは、
表現可能だ。
これは定型表現だからだ。

「買い物をしようと町に出る」という定型表現はない。
サザエさんの時代なら、デパートへ行く、
という絵でそれを撮ることは出来たかもだが、
今の時代は難しいだろう。

事前に家でネットを見ていくつかの商品を見比べ、
実物を店で見比べる、
などを撮ることは可能だが、
「買い物しようと町まで出る」気持ちとは違う。


映像は、細かければ細かいほど、
意図をモンタージュ出来る。

なんとなく歩く、とか、
なんとなく飯を食う、とか、
なんとなく誰かと話してて、などをしてはいけない。

全ての芝居には目的がある。
目的のない、曖昧な芝居はやってはいけない。

町を歩いていたら誰かに会って、などの文脈において、
「何故町を歩いていたのか」のバックストーリーを作らない限り、
本当は書いてはいけない。
(ついやっちゃう下手な脚本家はいる。
ベテランの役者はそういうところを見つけ、
自分なりの「目的」、例えば帰ってビールを飲むためにコンビニに急いでいる、
などを作る)


買い物しようと町まで出ることは、
映像では表現できない。

この文章の意味を100%再現できる映像は作れない。
もっと正確に色々と決めるか、
曖昧でよく分からない、下手な表現にしかならない。

小説では、意図を書いて行動を併記出来る、
地の文の強力さがある。
映像は、具体的でなければ撮れない。
posted by おおおかとしひこ at 13:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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