2015年04月13日

同調すること

なぜ物語は面白いのだろう。
根本的な問いだ。

僕は、「同調するたのしさ」と言ってみよう。



主人公(やその他の人物)の気持ちに、同調するからたのしい。

ハイハイ悲しい悲しい、という他人事ではなく、自分が悲しいぐらいに。
ハイハイテンション高い、という他人事ではなく、今最高にたのしい!ぐらいに。
なんか怒ってるわ、という他人事ではなく、ムカツク!許せん!ぐらいに。

感情移入とは、このようなことを言う。
第三者の、他人の、そもそもどうでもいい感情が、
いつの間にか、自分の本気の感情になることを言う。

どうせ感情移入するなら、
本気でその主人公に同調したい。
それが、物語の楽しみだ。


たとえば、その感情に近いかどうかは関係がない。
全く違う人の気持ちすら、よい感情移入は同調させる。
たとえば、関心の持てない他人事かどうかすら関係がない。
全く違う立場の人の気持ちすら、よい感情移入は同調させる。

女子が女子主人公のものを見たり、恋愛ものを見るのは、
関心事が近くて同調が簡単だからにすぎず、
たとえばモテナイ男に同調出来ない事を意味しない。

よく出来た感情移入は、
全ての人を、全ての今違う感情を排して、シンクロさせる。


主人公に感情移入する気持ちがなかったとしてもだ。
主人公を最初どうでもいいと思っていてもだ。
主人公が最初嫌いでもだ。

その全てのものを、ひとつにシンクロさせることが、感情移入である。


この同調が起こると、とにかく楽しい。
主人公のつらさや喜びが、我がものになるからだ。

この同調は、リアルなことが最前提だ。
たとえファンタジーであっても、
その状況やその事情が来れば、当然誰もが思うことが来ると、
全員が同調する。

同調しないのは、無理があるときだ。
つまり、自然に感情が流れなければならない。

たとえば、ドラマ「風魔の小次郎」では、
我々は小次郎と壬生に、とても同調していると言える。


物語の愉しみとは、その愉しい同調に他ならないのだ。
決して、憧れの俳優を拝むことではなく、
その人物の気持ちに同一化することなのだ。


だからハッピーエンドが大事なのだ。
同調した結果、幸せにならないと辛いからだ。
主人公が幸せになることで、我々の同調した感情も、
幸せになるのである。

物語の半分まで来てまだ同調が中途半端なのは、多分詰まらない物語だと思う。

その人物の一挙一投足が、まるで自分のものであるかのように感じられるのが、
同調がうまく行っていることだ。

作者もそうだ。
そして、観客もそうだ。

物語の愉しみとは、
第三者であるはずの架空の人物を通して、
作者と観客が、同調することにあると思う。


音楽なら音楽を通じて。
祭りなら祭りを通じて。
火の周りにあつまり、音楽を奏で、歌い踊ったり、物語を語ることは、
全員が同調する体験を、楽しんでいることなのである。
これを僕は、芸能と言ったりする。

本気で涙を流すのは何故か?
思わず大爆笑するのは何故か?
一生大事にする物語を経験するのは何故か?

同調するからである。


我々は、同調の価値のある物語を、提供しなければならないのだ。
posted by おおおかとしひこ at 16:33| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
これって重複投稿でしょうか?
でも最初の所の行間が違うから、そうじゃないのかも。
私自身には分からないですが汗
Posted by kentya at 2015年04月13日 20:15
kentya様、ご指摘ありがとうございます。
Macからアップすると時々こうなるんすよ。
気づいたときは人力で消してたんですが、今回は見落としてました。

Seesaaユーザーの方、対策あるのなら教えて下さい。
下書き→非公開保存→not found→ブラウザで戻って原稿修正→公開にして保存→二重投稿のパターンがまれによくあります。
Winやスマホではなったことないです。
Posted by 大岡俊彦 at 2015年04月13日 20:30
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