なぜ物語は面白いのだろう。
根本的な問いだ。
僕は、「同調するたのしさ」と言ってみよう。
主人公(やその他の人物)の気持ちに、同調するからたのしい。
ハイハイ悲しい悲しい、という他人事ではなく、自分が悲しいぐらいに。
ハイハイテンション高い、という他人事ではなく、今最高にたのしい!ぐらいに。
なんか怒ってるわ、という他人事ではなく、ムカツク!許せん!ぐらいに。
感情移入とは、このようなことを言う。
第三者の、他人の、そもそもどうでもいい感情が、
いつの間にか、自分の本気の感情になることを言う。
どうせ感情移入するなら、
本気でその主人公に同調したい。
それが、物語の楽しみだ。
たとえば、その感情に近いかどうかは関係がない。
全く違う人の気持ちすら、よい感情移入は同調させる。
たとえば、関心の持てない他人事かどうかすら関係がない。
全く違う立場の人の気持ちすら、よい感情移入は同調させる。
女子が女子主人公のものを見たり、恋愛ものを見るのは、
関心事が近くて同調が簡単だからにすぎず、
たとえばモテナイ男に同調出来ない事を意味しない。
よく出来た感情移入は、
全ての人を、全ての今違う感情を排して、シンクロさせる。
主人公に感情移入する気持ちがなかったとしてもだ。
主人公を最初どうでもいいと思っていてもだ。
主人公が最初嫌いでもだ。
その全てのものを、ひとつにシンクロさせることが、感情移入である。
この同調が起こると、とにかく楽しい。
主人公のつらさや喜びが、我がものになるからだ。
この同調は、リアルなことが最前提だ。
たとえファンタジーであっても、
その状況やその事情が来れば、当然誰もが思うことが来ると、
全員が同調する。
同調しないのは、無理があるときだ。
つまり、自然に感情が流れなければならない。
たとえば、ドラマ「風魔の小次郎」では、
我々は小次郎と壬生に、とても同調していると言える。
物語の愉しみとは、その愉しい同調に他ならないのだ。
決して、憧れの俳優を拝むことではなく、
その人物の気持ちに同一化することなのだ。
だからハッピーエンドが大事なのだ。
同調した結果、幸せにならないと辛いからだ。
主人公が幸せになることで、我々の同調した感情も、
幸せになるのである。
物語の半分まで来てまだ同調が中途半端なのは、多分詰まらない物語だと思う。
その人物の一挙一投足が、まるで自分のものであるかのように感じられるのが、
同調がうまく行っていることだ。
作者もそうだ。
そして、観客もそうだ。
物語の愉しみとは、
第三者であるはずの架空の人物を通して、
作者と観客が、同調することにあると思う。
音楽なら音楽を通じて。
祭りなら祭りを通じて。
火の周りにあつまり、音楽を奏で、歌い踊ったり、物語を語ることは、
全員が同調する体験を、楽しんでいることなのである。
これを僕は、芸能と言ったりする。
本気で涙を流すのは何故か?
思わず大爆笑するのは何故か?
一生大事にする物語を経験するのは何故か?
同調するからである。
我々は、同調の価値のある物語を、提供しなければならないのだ。
2015年04月13日
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でも最初の所の行間が違うから、そうじゃないのかも。
私自身には分からないですが汗
Macからアップすると時々こうなるんすよ。
気づいたときは人力で消してたんですが、今回は見落としてました。
Seesaaユーザーの方、対策あるのなら教えて下さい。
下書き→非公開保存→not found→ブラウザで戻って原稿修正→公開にして保存→二重投稿のパターンがまれによくあります。
Winやスマホではなったことないです。