2015年04月14日

同調すること2:見世物小屋と同調

同調こそが物語の愉しみである。

同調と感情移入は微妙に違うが、
それを置いておいても、
同調が上手くいくと物語は成功する。

同調とは、他人の言動を見て、その中に視点を動かすことだと思う。
その人が何を考え、どう感じているか理解しているうちに、
いつの間にかその人の中に入り、
自分の気持ちのように感じることだ。

その部分集合は、
同情、人が飯を食ってたら自分も食いたくなる、
AVを見る行為、踊りを見て踊りたくなること、
歌や音楽を聞いてその気分になること、
などが含まれている。
(CMソングは手軽に同調を起こすテクニック)


映画は「見るもの」という先入観のせいで、
「見たいもの」を見せること、
という先入観がまかり通っている。
これは1/10くらいは真実だが、
9/10ぐらいは誤りである。

見たいものを見たいのは、見世物小屋のことだ。

自分は安全圏から、危険を犯すことなく、
ただ見たいのである。
(知り合いのブスが、好きなジャニーズに会ったら、
箱の中に入ってただ観察したい、と言っていて、
そういうものか、とびっくりしたことがある。
話すとか触るとかじゃなく、ばれないように見るだけだと。
男女逆に考えれば、それは良く分かる)

映像のひとつの役割は、その見世物小屋を提供することだ。
今回の目玉を映像で用意し、
ハッタリをつくり、人を寄せることだ。
バカなプロデューサーはそれしか考えないから、
ビジュアリストを監督にしたてあげ、毎回失敗作をつくる。
蜷川実花、関口現(師匠ですが、映画に関しては手厳しくいきます)
を監督にするのはそのためだ。


映画は見世物小屋や動物園ではない。
正確に言うと、玄関口は見世物小屋や動物園だが、
中に入ると、そこは同調の場所である。

主人公やその他の登場人物に、いかに同調出来るかが、
映画という物語だ。
(それは小説でも演劇でも漫画でもそうだろう)


恋愛もので、女優に同調して、
素敵な俳優に言い寄られてうっとりするのは、
半分同調、半分見世物小屋である。

本当の同調は、女優にも同調し、相手役の俳優にも同調することだ。

(実際のところ、ここまで上手くいった例は、なかなかない。
ローマの休日、風魔の10話は、その稀有な例のひとつである)


本当の同調が上手くいけば、
「この二人に上手くいって欲しい」という気持ちになるはずだ。
松潤と井上真央が結婚、というのは、
花男に同調したから皆が祝いたいのだ。

この同調が上手くいかないと、
好きな俳優に言い寄られる女優に、
嫉妬の感情が起こる。
あんな女は○○に相応しくないという口上で。

タレントとは、物語を介さずに、
人々と同調する仕事である。
正確には、小さな物語を日々生むことで、同調を維持する。


我々が書く物語は、
全く見知らぬ人に、
最終的には、全員が同調するように書くべきものである。
ラブストーリーだろうがバトルものだろうが実録ものだろうが。

その同調こそが、物語を書き、受ける、愉しみである。
その妨げになるものは、邪魔なのだ。
それが下手なら、詰まらないのだ。

同情や飯やセックスや踊りや音楽は、
手っ取り早く同調を起こしやすい、強い道具だ。
あ、恐怖もあるな。
これを使って同調させるのは、
テクニックに過ぎない。いわば劇薬である。
(ここによくハッタリが使われる。
ペプシ桃太郎は、その典型だ)

これを使わずとも、
人間ドラマを描くだけで同調させることが出来るのが、
ストーリーテラーの実力である。


いずれにせよ、玄関口は見世物小屋、
中身は同調であることが、物語の理想だ。
(僕はその比率は1:9ぐらいだと考えている。
ペプシ桃太郎は10:0だ)


その為にはどうすればいいかのヒントは、大分書いた。
変わったシチュエーションと、
リアルな反応と、
そもそもの事情(バックストーリー)が、
キーになると思っている。
posted by おおおかとしひこ at 11:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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