感情移入は、何に同調するのか。
シチュエーション(事件や人間関係)、
その反応や感情、その行動、
全てである。
そしてその結果によって、
次のシチュエーション、反応や感情、行動…
にもである。
この全てに同調しているのが、感情移入である。
没頭的な同調だ。
音楽の同調。
歌の同調。
ダンスの同調。
火を囲むシチュエーションの同調。
光に照らされたムードの同調。
手拍子や足拍子の同調。
打楽器によるリズム(心臓の鼓動)の同調。
これらは原始的な同調の例であり、
原始的な芸能のことである。
芸能の特徴は、
わずかな演者が、多くの(座ったままの)観客に対して、
同調させるように誘導していくことだ。
座ったままでないのは、盆踊りからライブハウスまで、
踊る同調の場ぐらいのもので、
大抵は座る場所でやるものである。
花見の宴会すら、座る同調である。
さて、
これらの原始的な同調に対して、
物語の同調は、かなり複雑だ。
ある時点(シチュエーション、人間関係、気持ち)の同調だけでなく、
刻々と変化すること全てに同調しなければならないからだ。
しかし、同調→同調終わり→新しいシチュエーションに同調
というデジタル的なことではなく、
アナログ的に、同調は移行する。
この同調の移行がスムーズに、殆ど無意識にいくためには、
ストーリーに無理がなく、
自然な流れの時だけである。
逆に自然な流れとは、
それ以前の同調が、スムーズに次の同調へ移行するものと定義してもよい。
反応や感情やリアクションが自然、
無理のない展開、強引や理不尽や漏れがないこと、
アホすぎず賢すぎないこと、
ついていけること、
などが具体的条件になるだろう。
(全て予測の範囲内だと同調に飽きるので、
時々予想を越える展開にして、同調を揺らしてドキドキさせることもある。
それが出来るのは同調をコントロール出来る上級者だ)
また、同調は主人公がベースだ。
全員が同調するのは、主人公である。
主人公とは、主人公ぽいキャラのことではなく、
観客全員が同調しているキャラクターのことである。
(群像劇とは、同調するキャラクターが、
入れ替わり立ち替わりするジャンルだ。
例えば聖闘士星矢は、ペガサス星矢に同調することはないまま、
キグナス氷河、ドラゴン紫龍、アンドロメダ瞬、フェニックス一輝に、
次々と同調するのを楽しむ漫画である。
黄金十二宮以降、同調するキャラが、ムウやシャカやアイオリアや老師や、
色々増えてしまい、我々の同調が絞りきれず、
同調が空中分解してしまった。
それでもマリーナ編までは我慢できたが、
スペクターではどうでも良くなってしまった。
群像劇は、それぞれのキャラが立つことが大事で、
ペガサス星矢に同調出来ないことは、さほど欠点にはならなかった。
中盤以降の失速は、敵の魅力のなさも勿論だが、
僕は同調キャラが分散したことだと思っている)
主人公への同調だけが物語の愉しみではない。
様々な人物への同調も同時に楽しむものである。
主人公への同調をベースに、
それぞれの人物への同調も上手くいった、
ドラマ「風魔の小次郎」を思い出してみよう。
主人公、小次郎への同調はいつ起こる?
恐らく二話終わり。
学院同士の任務とは関係ないところで、
病弱の子供に希望を与えるような、
余計なところまで人を幸福にしている、
お調子者の小次郎に、
魅力を感じ、信用するあたりだ。
武蔵に足をぶち抜かれたが、
どっこい凹んでなくて、全然ヤル気満々なあたりだ。
三話の中盤くらいからかも知れない。
ここからは、小次郎との同調が離れることなく、
この物語を小次郎とともに歩む感覚で見ることになる。
本格的に彼の内面に入るのは、
五話のラスト、「本当に人が死んでいくんだ」だろう。
ここで完全に我々は小次郎の中に入るはずだ。
一方、小次郎だけでないのがこの物語の魅力である。
壬生だ。
一話の負けっぷり、二話の「俺を人数に入れてないな」は、
同調へのネタ振りであり、まだ同調ではない。
壬生への同調はいつか?
四話の道場あたりかな。
転落人生という壬生っぽさが生まれたとき、
我々は壬生と同調する。
(我々観客が転落人生かどうかには関係なくだ)
そうこうしているうちに、
絵里奈、武蔵、陽炎あたりの同調も起きる。
劉鵬もだろう。黒獅子もかもだ。
竜魔や蘭子、姫子にも同調は起こる。
麗羅にも夜叉姫にもだろう。
この怒濤の同調がこの物語の魅力だ。
(例えば雷電には同調は起きない。
分かる分かる、の他人の面白さレベルの見方であり、
我々が本気で、夜叉姫に届かない思いに同調することはない。
だからネタ扱いされ、いじられの対象になり、感情移入の対象にならない。
だからその死はネタとして大爆笑であり、悲劇ではない。
あれが壬生の死なら、同調している我々は納得行かない筈だ。
霧風はどうだろう。その境界線ではないだろうか。
竜魔と霧風に関しては、その節度をギリギリにコントロールしたつもりだ)
この同時多発的な同調の結果、
この世界全てに同調したくなるのが人間である。
だから、結果、全員が好きになる。
原作からの永遠のやられキャラ、不知火すらもだ。
感情移入を伴った同調と、
単なる同調(雷電、不知火など)があるのだけど、
最早その区別などつかず、
しかもDVDで役者の素顔にも同調し、
結果役者ごと、何もかも好きになる。
単なる人形の鈴木さんや鳩すら、みんな好きになる。
ドラマ「風魔の小次郎」は、
その同調が、稀有な完璧さを誇る作品だ。
安いことだけが欠点だが、
登場人物たちへの同調という点は、
おそらく何年かに一回、
下手すると一生に何回かしかない、ハマリを引き起こす。
中毒性があり、何度もリピートしてしまうのは、
単なるイケメンだったり、
単なるネタが笑えるからではない。
同調している。
それは、祭りで手拍子を合わせることと同じで、
彼ら、彼女らの全てに同調しているのだ。
その同調全ては、
物語への同調が根本だ。
後続の三作、「Rh+」「東京ゴーストトリップ」「ここはグリーンウッド」は、
何故ここまでの同調を引き起こさなかったかについては、
ここでは分析しない。
恐らく風魔より話題イケメンを使ったはずなのに。
恐らく風魔より腐女子向けを露骨に狙ったはずなのに。
(予算は風魔よりなかったかもで、そのことについては申し訳ない)
根本の、物語への同調が出来なかったからではないか、
という仮説にとどめておく。
一話二話、つまり一幕あたりは、その物語への同調の、導火線に過ぎない。
その物語への同調が出来てからが、
本当の物語の面白さだ。
その物語への本当の同調、
すなわち感情移入は、
シチュエーション(事件や人間関係)、
感情や反応、そこからの行動、
そしてそれによって変化したシチュエーション、
それへの感情や反応、そこからの行動…
その連鎖、その要素、
その全てに、起こるものである。
漏れがあったり、不自然やとぎれがあるものは、
感情移入ではないのだ。
2015年04月15日
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