2015年04月15日

同調すること6:リライトと同調

つくづく我々脚本家は大変だ。

事件と解決を考え出し、ストーリーラインを複数絡ませ、
外的問題と内的問題を構築し、新鮮味がある題材でひきつけ、
複数の人格のスムーズな分裂と統合をし、
コンフリクトで面白くし、アイデアをそこかしこにばらまき、
カタルシスで変化を描いてテーマを暗示しなければならない。

それどころか、登場人物に同調もさせなければならない。

大変だ。
まず一発でこれを書くことは出来ないだろう。
だから何度も書き直したり、いじったりしながら、
脚本は完成に導かれるのが普通だ。

しかし、
そのリライトの過程で最も失われるのは、
この同調の感覚だということに、注意しよう。



リライトは、大抵は理屈で行われる。

これはこうだとおかしいからこう直す、
このままだとこうだから、このように直せばこのようになる、
などである。

従って、理屈としては正しくなってゆく。(はずである)
しかし、どうにも面白くなくなることのほうが多い。
失われるのは、感覚的なものだ。

感覚的なものだから、長年言葉にならなかった。
だから、この違和感に触れるたびに、
言葉で説明が出来なかった。

言葉で説明出来ないものは、論理に負けやすい。
何故なら、「感情的に嫌だということ」でしか、抵抗出来ないからだ。
だから抵抗するのはただの我が儘にしか、見えていない。
論理的に正しいと思えば思うほどだ。


この感情的な違和感の、主な正体が、
「登場人物との同調が崩れること」ではないか、
と最近分かってきた。


例えば分かりやすいのはリズム。
人があるものを把握するのには、
あるリズムがある。
気持ちよいリズムだと、気持ちよく入ってくる。
ところが論理的都合で、間に一行加えたり、
ワンシーン足したり、一文字足したりすることで、
おかしなことになる。
575で気持ちよかったのが、875や595になったりするイメージだ。
あるいは375や523みたいな、足りないことかも知れない。

リズムが変、はまだ客観的な指標があり、
議論しやすい。論理的な解決も糸口はある。

もっと感覚的な部分が厄介だ。


例えば知らない町にいくとしよう。
駅を降りて北側に山があり、南に川がある。
間に学校があって、その筋を曲がるとコンビニ。

最初にそう理解すると、その町との同調は、
山と川と学校とコンビニを基準に、なされることになる。
ところがリライトすることで、
この同調が、
例えば山と川をなしにして、大通りと商店街を基準に、
うどん屋とコンビニの間の通りで理解する、
みたいなものに変わってしまうことがある。

にも関わらず、
直してないところは、山と川と学校とコンビニによる同調で、
認識していたりする。
どちらかを決めなければならない。
元の同調によるものか、
新しい同調によるものか。
バラバラなものが混ざっているのは、感覚的に変だとなる。
論理で間違ってなくてもだ。

世の中の多くのリライトの失敗は、
このような同調の違和感が、放置されたままになっていることにある。

論理的には合ってる。
合ってるのだが面白くないし、違和感がある。
それは言葉に出来ない違和感だ。

登場人物の同調が、変調を来している、という違和感なのだ。

これが音楽なら、音程が狂ってるとかキーがずれてる、
などの客観的指標があるから楽だ。
しかし、同調の狂いは、実は作者にしか分からない。

その違和感をも、リライトでは修正する必要がある。
元の同調なのか、新バージョンの同調にするか、
決めたあとでだ。
つまりは、基本、全面改稿となるはずだ。
(でも直しを要求する人は、
ちょっと直せばいいと、大抵思っている)


リライトで起こる殆どの問題は、
この同調に気を配っていないことで、
作品がダメになることに気づいていないことから、
起きるのではないだろうか。

とても繊細な問題だ。
しかし感情移入とは、そのような繊細で全人間的感覚である。



自分の中でのリライトでは、
この同調の感覚に気をつけることが出来る。

しかし、他人とのやり取りでは大抵そこまで感覚を共有出来ない。
言葉で説明出来ないものが多いので、
キャラが変わってしまう、などと相手に理解できる言葉で相談するとよいかも知れない。
(そして相手は大抵その理解すら大雑把なことがあるのだが。
「いけちゃんとぼく」でのリライト時の苦い経験を書くと、
サイバラの感性が理解されていないということだ。
黒サイバラと白サイバラで、彼女はバランスを取っている、
と何回説明して、著書を見せても、
原作にないものはないものとする、という大雑把な考え方に、
絶望したことがある。この場合の正解は、分からない。
その人の理解を引き出すまで根気よく議論する知恵が、その時の僕にはなかった)


リライトすればするほど、面白くなくなるのは何故か。
良くしていく為の改訂が良くならないのは何故か。

実は、言葉になりにくい、同調の感覚がおざなりになっているからではないかと思う。

漫画や小説の映画化が何故失敗するか、の答えのひとつがこれだ。
原作の世界との同調の感覚が、
映画のなかで全然違うものになっているからだ。

実写風魔は、同調の感覚が、原作に近かったからこそ、
原作ファンに支持されたのだ。


同調は感覚だ。
センス、しかそれを表す言語がないところが、難しいところだ。
posted by おおおかとしひこ at 15:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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