つくづく我々脚本家は大変だ。
事件と解決を考え出し、ストーリーラインを複数絡ませ、
外的問題と内的問題を構築し、新鮮味がある題材でひきつけ、
複数の人格のスムーズな分裂と統合をし、
コンフリクトで面白くし、アイデアをそこかしこにばらまき、
カタルシスで変化を描いてテーマを暗示しなければならない。
それどころか、登場人物に同調もさせなければならない。
大変だ。
まず一発でこれを書くことは出来ないだろう。
だから何度も書き直したり、いじったりしながら、
脚本は完成に導かれるのが普通だ。
しかし、
そのリライトの過程で最も失われるのは、
この同調の感覚だということに、注意しよう。
リライトは、大抵は理屈で行われる。
これはこうだとおかしいからこう直す、
このままだとこうだから、このように直せばこのようになる、
などである。
従って、理屈としては正しくなってゆく。(はずである)
しかし、どうにも面白くなくなることのほうが多い。
失われるのは、感覚的なものだ。
感覚的なものだから、長年言葉にならなかった。
だから、この違和感に触れるたびに、
言葉で説明が出来なかった。
言葉で説明出来ないものは、論理に負けやすい。
何故なら、「感情的に嫌だということ」でしか、抵抗出来ないからだ。
だから抵抗するのはただの我が儘にしか、見えていない。
論理的に正しいと思えば思うほどだ。
この感情的な違和感の、主な正体が、
「登場人物との同調が崩れること」ではないか、
と最近分かってきた。
例えば分かりやすいのはリズム。
人があるものを把握するのには、
あるリズムがある。
気持ちよいリズムだと、気持ちよく入ってくる。
ところが論理的都合で、間に一行加えたり、
ワンシーン足したり、一文字足したりすることで、
おかしなことになる。
575で気持ちよかったのが、875や595になったりするイメージだ。
あるいは375や523みたいな、足りないことかも知れない。
リズムが変、はまだ客観的な指標があり、
議論しやすい。論理的な解決も糸口はある。
もっと感覚的な部分が厄介だ。
例えば知らない町にいくとしよう。
駅を降りて北側に山があり、南に川がある。
間に学校があって、その筋を曲がるとコンビニ。
最初にそう理解すると、その町との同調は、
山と川と学校とコンビニを基準に、なされることになる。
ところがリライトすることで、
この同調が、
例えば山と川をなしにして、大通りと商店街を基準に、
うどん屋とコンビニの間の通りで理解する、
みたいなものに変わってしまうことがある。
にも関わらず、
直してないところは、山と川と学校とコンビニによる同調で、
認識していたりする。
どちらかを決めなければならない。
元の同調によるものか、
新しい同調によるものか。
バラバラなものが混ざっているのは、感覚的に変だとなる。
論理で間違ってなくてもだ。
世の中の多くのリライトの失敗は、
このような同調の違和感が、放置されたままになっていることにある。
論理的には合ってる。
合ってるのだが面白くないし、違和感がある。
それは言葉に出来ない違和感だ。
登場人物の同調が、変調を来している、という違和感なのだ。
これが音楽なら、音程が狂ってるとかキーがずれてる、
などの客観的指標があるから楽だ。
しかし、同調の狂いは、実は作者にしか分からない。
その違和感をも、リライトでは修正する必要がある。
元の同調なのか、新バージョンの同調にするか、
決めたあとでだ。
つまりは、基本、全面改稿となるはずだ。
(でも直しを要求する人は、
ちょっと直せばいいと、大抵思っている)
リライトで起こる殆どの問題は、
この同調に気を配っていないことで、
作品がダメになることに気づいていないことから、
起きるのではないだろうか。
とても繊細な問題だ。
しかし感情移入とは、そのような繊細で全人間的感覚である。
自分の中でのリライトでは、
この同調の感覚に気をつけることが出来る。
しかし、他人とのやり取りでは大抵そこまで感覚を共有出来ない。
言葉で説明出来ないものが多いので、
キャラが変わってしまう、などと相手に理解できる言葉で相談するとよいかも知れない。
(そして相手は大抵その理解すら大雑把なことがあるのだが。
「いけちゃんとぼく」でのリライト時の苦い経験を書くと、
サイバラの感性が理解されていないということだ。
黒サイバラと白サイバラで、彼女はバランスを取っている、
と何回説明して、著書を見せても、
原作にないものはないものとする、という大雑把な考え方に、
絶望したことがある。この場合の正解は、分からない。
その人の理解を引き出すまで根気よく議論する知恵が、その時の僕にはなかった)
リライトすればするほど、面白くなくなるのは何故か。
良くしていく為の改訂が良くならないのは何故か。
実は、言葉になりにくい、同調の感覚がおざなりになっているからではないかと思う。
漫画や小説の映画化が何故失敗するか、の答えのひとつがこれだ。
原作の世界との同調の感覚が、
映画のなかで全然違うものになっているからだ。
実写風魔は、同調の感覚が、原作に近かったからこそ、
原作ファンに支持されたのだ。
同調は感覚だ。
センス、しかそれを表す言語がないところが、難しいところだ。
2015年04月15日
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