2015年04月15日

同調すること7:パーツを集めても話にはならない

パーツを集めて流れを作るんじゃない、
流れを作ってパーツをぶら下げるんだ。

お話を書くのが下手な人は、
パーツを集めることが主な仕事だと誤解している。

何か面白そうなものを集め、
それを並べると、一種の流れが出来るのではないかと。
子供の頃やった、宝物集めのような感覚だ。

流れが出来ない(或いは途中で滞る)のは、
集めたパーツが悪いからであり、
パーツの集め方や並べ方が悪かったと考えてしまう。
それは誤りだ。


昔ドラえもんでもあった。
石鹸(のなかの脂肪)や釘(のなかの鉄分)を集めて、
人体錬成する話。
石鹸や釘をそのパーセンテージ分集めて、
人間が出来るか?
否だろう。
それらがどう結合しているかの構造が、必要だろう。
それらがどう生命の流れをなしているかが、重要だろう。


話をつくる過程の、
ごく初期のほうはそのようなパーツ集めである。
それらをランダムに集めているうちに、
ある日雷が落ちて、
自己組織化がはじまる。

話が出来ていくのである。

一旦その流れが出来はじめたら、
パーツ集めよりも、その流れを最初から最後まで、
「通す」ということをやるといい。

どんな前提で、何が起こり、どう終わるかを、
ひとつの流れにしてみるといい。
(落ちを決めることは、話をつくる上で最初にすることである)


そうすると、
何がその流れには必要で、
どういうものはその流れには必要ないかが分かる。

流れがパーツを選ぶようになる。
錬成のはじまりだ。


ここからは、オモシロパーツを集める必要はない。
流れを何度も何度も頭からケツまで繰り返し再生し、
形を変えたり整えていくとよい。
流れが、その流れ自身の成長の方向を決める。

なんだか魔術みたいだが、
これは本当だ。

それは、多分同調と関係している。


こういう流れなら、当然こうだろうということが、
同調していれば分かるからだ。
植物が栄養さえあれば成長するように、
流れは成長してお話になるだろう。
(ならないのは、同調が中途半端か、その話が面白くないときだ。
もさ中途半端だと感じたら、完全な同調に比べて、
どんな要素が足りないかを想像しよう)


逆に、その同調を裏切った無理矢理のパーツを付け加えても、
絶対に上手くいかない。

全ては、その同調にとって、面白いかどうかなのだ。


パーツを集めても、話は出来ない。
話が出来る途中で、パーツを食っていく。
話とか流れとか呼ぶのは、
主人公やその世界への同調である。

結果的に、流れに対して、パーツをぶら下げるだけでよくなる。


これを経験したことない素人が、
パーツを集めて並べたのが話だと、勘違いしている。


お話は、目の前にあるものの中にはない。
目の前にあるものの裏にある、
目に見えないものがその正体だ。
目に見えないそれが、
目の前にあるものの形を取っているだけなのだ。

それは、同調することでのみ、共有出来るものなのだ。

目の前に見えているパーツ、
例えば絵や役者や台詞や芝居やオモシロエピソードは、
同調の為の入り口に過ぎず、
その奥の見えないものこそが、お話の全貌なのである。


書いている人にはなんとなく分かることだと思う。
書いたことない人には、さっぱりだと思う。

この辺を上手く言語化したいのだが、難しい。
posted by おおおかとしひこ at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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