パーツを集めて流れを作るんじゃない、
流れを作ってパーツをぶら下げるんだ。
お話を書くのが下手な人は、
パーツを集めることが主な仕事だと誤解している。
何か面白そうなものを集め、
それを並べると、一種の流れが出来るのではないかと。
子供の頃やった、宝物集めのような感覚だ。
流れが出来ない(或いは途中で滞る)のは、
集めたパーツが悪いからであり、
パーツの集め方や並べ方が悪かったと考えてしまう。
それは誤りだ。
昔ドラえもんでもあった。
石鹸(のなかの脂肪)や釘(のなかの鉄分)を集めて、
人体錬成する話。
石鹸や釘をそのパーセンテージ分集めて、
人間が出来るか?
否だろう。
それらがどう結合しているかの構造が、必要だろう。
それらがどう生命の流れをなしているかが、重要だろう。
話をつくる過程の、
ごく初期のほうはそのようなパーツ集めである。
それらをランダムに集めているうちに、
ある日雷が落ちて、
自己組織化がはじまる。
話が出来ていくのである。
一旦その流れが出来はじめたら、
パーツ集めよりも、その流れを最初から最後まで、
「通す」ということをやるといい。
どんな前提で、何が起こり、どう終わるかを、
ひとつの流れにしてみるといい。
(落ちを決めることは、話をつくる上で最初にすることである)
そうすると、
何がその流れには必要で、
どういうものはその流れには必要ないかが分かる。
流れがパーツを選ぶようになる。
錬成のはじまりだ。
ここからは、オモシロパーツを集める必要はない。
流れを何度も何度も頭からケツまで繰り返し再生し、
形を変えたり整えていくとよい。
流れが、その流れ自身の成長の方向を決める。
なんだか魔術みたいだが、
これは本当だ。
それは、多分同調と関係している。
こういう流れなら、当然こうだろうということが、
同調していれば分かるからだ。
植物が栄養さえあれば成長するように、
流れは成長してお話になるだろう。
(ならないのは、同調が中途半端か、その話が面白くないときだ。
もさ中途半端だと感じたら、完全な同調に比べて、
どんな要素が足りないかを想像しよう)
逆に、その同調を裏切った無理矢理のパーツを付け加えても、
絶対に上手くいかない。
全ては、その同調にとって、面白いかどうかなのだ。
パーツを集めても、話は出来ない。
話が出来る途中で、パーツを食っていく。
話とか流れとか呼ぶのは、
主人公やその世界への同調である。
結果的に、流れに対して、パーツをぶら下げるだけでよくなる。
これを経験したことない素人が、
パーツを集めて並べたのが話だと、勘違いしている。
お話は、目の前にあるものの中にはない。
目の前にあるものの裏にある、
目に見えないものがその正体だ。
目に見えないそれが、
目の前にあるものの形を取っているだけなのだ。
それは、同調することでのみ、共有出来るものなのだ。
目の前に見えているパーツ、
例えば絵や役者や台詞や芝居やオモシロエピソードは、
同調の為の入り口に過ぎず、
その奥の見えないものこそが、お話の全貌なのである。
書いている人にはなんとなく分かることだと思う。
書いたことない人には、さっぱりだと思う。
この辺を上手く言語化したいのだが、難しい。
2015年04月15日
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