同調の話、もう少し続けます。
タレントが俳優になれないのは何故か。
何故最近のドラマは豪華キャストなのに惨敗するのか。
失敗したキャスティングは、
同調を考えると、分かりやすくなる。
タレントとは、
「その人に同調することを、皆が楽しむ人」
のことである。
スターや芸人など、
自分のプライベートを切り売りするのは、
その人そのものに同調が起こるからである。
「その人が芸能活動をしていること」に、皆が同調する。
「その人の芸」に同調するのではない。
元々、何らかの芸が上手かったので、
芸能人になれた、というのはあるだろう。
例えばジャニーズは、
イケメンだし、歌って踊れる芸が確かにある。
しかし、SMAPや嵐は、もはや、
「芸をしているタレントその人」として、同調される。
松潤が、キムタクが、というのが主語であり、
歌って踊るすごい人が、とか芝居がうまい人が、
が主語ではない。
ましてや、役の中の人が、ではない。
(村井良大と、小次郎は、分離されて理解されている。
しかし、役ではなくタレントとしてタレントは理解されている)
むしろ日本におけるタレントとは、
「その人の芸が一定以上に認められたのち、
その人のパーソナリティーに同調されること」が、
その仕事の本質だ。
ツイッターやブログやインスタなどは、
その同調の為の道具だ。
その人が飯を食うだけで、誰かと会うだけで、
その人がテンションが上がるだけで、
同調している我々のテンションが上がるのである。
その人は芸で食べていく必要はない。
その人は同調されることで、食べていくのである。
売れた芸人や役者や歌手が、
その芸を続けず、テレビの司会者やレギュラーになり、
その日々を切り売りすることは、
芸に同調されるのではなく、
芸をする人に同調されることを意味する。
日本のタレント事情が特殊で、
日本だけがこうなのかも知れないが、
これが、ドラマや映画にとって、
最も逆のものなのだ。
何故なら、ドラマや映画は、
そのシチュエーションに陥った、その主人公に、同調する楽しみであり、
そのシチュエーションに陥った、そのタレントに同調することではないからだ。
例えば「ソウ」というお話は、
目覚めたら目の前に死体があり、
ノコギリと鎖がおいてあり、汚いトイレのような場所から脱出しなければならない、
異常なシチュエーションに陥った男の話である。
これをキムタクが演ずるとしよう。
そうすると、キムタクがある日目覚めたら、になってしまうのだ。
コンサートに向かう途中拉致され、
今日の本番に穴を開けることを心配しながら、
この動画が撮影されてて流出することを心配しながら、
髪型もちょいちょい直しながら、
カメラ向きの事を言いながら、
目の前の死体やノコギリと闘わなければいけなくなるのだ。
それはバラエティーと変わらなくなる。
この異常なシチュエーションに放り込まれた男は、
ただの無名な男であるべきだ。
何の力もない男が悲劇にあう様を、犯人ジグソウは楽しんでいるからだ。
キムタクを悲劇に会わせて楽しんでいるのではないからだ。
勿論、キムタクだって脚本が読めるから、
こんな映画に出演する愚を犯さないだろう。
キムタクはもはや役者でなくタレントだからだ。
「キムタクが演じること」の同調が、
「その役が味わう状況」の同調より強いからだ。
最近の間違ったキャスティングは、
タレントとして同調している人をキャスティングしてしまうことだ。
学芸会と揶揄されるのも良く分かる。
学芸会は、劇の内容に同調するのではなく、
「みんなで劇というものを作り上げている」ことに同調しがちだからだ。
タレントとして同調される人をキャスティングすることは、
話の内容に同調されるべきものを、
一回邪魔する。
タレントとしての同調を忘れさせる段取りが必要だ。
役として同調されるのではなく、
役を演じてるタレントとして同調されること。
この誤りが、最近の誤ったキャスティングによく見られる。
主演が数字を持っているかどうかで結果が出るのがその最たる誤解だ。
話の内容と、関係がないからだ。
面白かった話が数字を取り、詰まらなかった話が数字を取れないだけで、
主演が好きかどうかで数字が取れる訳ではない。
勿論、この誤解は昔から大いに利用されている。
看板俳優というシステムだ。
看板俳優への同調と、話の内容への同調は違うのだが、
それを混在させることで、誤解させてしまう仕組みだ。
まゆゆの主演ドラマが爆死しているという。
「まゆゆが書店員役で主演!」と、
「書店員が上役に黙ってタレントのサイン会を開き、
客は集めるが大変なことになる」と、
どちらに同調するべきだろうか。
ドラマの内容、つまり後者に同調するのなら、
まゆゆだろうが知らない女優だろうが、
関係なく評判は上がる。
見ていないが、恐らくそうではないのだろう。
前者に同調する人が、視聴率を支えているのだろう。
学芸会を見る親と同じだ。
息子や娘が頑張っていることに同調し、
肝心の内容には同調しないのだ。
それが6%いる、ということなのだろう。
視聴率至上主義が、ドラマを壊したと僕は思う。
視聴率を取りたいがため、
内容の同調には時間のかかるものに、
安易に「その人に同調する人が多い人」を投入した結果だ。
本当に面白いドラマは、その主人公への同調が面白い。
それは、数字には現れない。
同調は数字で測定できるものではないからだ。
(エヴァのシンクロ率みたいな?)
数字で測定し、数字しか基準にしない、
間違った数字信仰(数学に詳しい人ほど、数学の限界を知っている)
が、数字以外のものを切り捨てた結果である。
儲かったか儲かってないかは、重要じゃない。
同調が面白かったかどうかが、重要なのに。
数字しか見ない馬鹿は、誤った合理化をする。
儲けに走って商店街をシャッターだらけにしたスーパーのように、
内容を破壊することしかしない。
内容とは、数字で測定出来ないもののことを言う。
我々が人生を生きる意味とか、
世界をどう良くするべきかという思いとか、
誰かを大切にすることとか、
世界なんて破滅してしまえという思いは、
数字にはならない。
文学とは、数字で書けないものを同調で共有することである。
(数字に書けるものは、客観的レポートという)
ということで、
今日も間違ったキャスティングの、間違ったドラマが、
ドラマ業界を破壊していくだろう。
映画もそうなりつつあって、僕は怖い。
そもそも、数字至上主義、合理化至上主義の、
資本主義で、文学や同調を評価することが、間違ってると僕は思う。
儲けじゃねえんだ、良かったかどうかなんだ。
東宝は、宝塚を決して上場させないのだそうだ。
上場したら、資本主義の原理に従わなければならないからだ。
合理化によって、文化が無くなることを恐れているからだ。
文学とは何かを分かっている人の、合理的判断だと僕は思う。
出版社も、文学は儲けでなくやっていて、
雑誌や漫画で儲けを出して、安定して両輪でやっていた筈だ。
(手塚プロが漫画で稼いでアニメに突っ込んだみたいに)
雑誌文化の凋落によって、いよいよ文学もヤバイのではないかと思っている。
物語の本質は、同調である。
それを理解してない人たちが、物語を振り回している。
それに対して我々脚本家が出来ることは、
タレントの同調の為に、内容に同調出来ないクズ脚本を書くか、
真に同調出来る名作を書くことだ。
今前者が売れているだけの話だ。
あなたは、後者になってほしい。
その批評のための言葉を、僕はここで懸命に提供していきたいと思う。
(勿論、作品も書く!)
2015年04月16日
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