何をもって話が出来たと判断すればよいか。
抽象的な「話」が、
たとえどんな具体的ディテールになったとしても、
そのディテールに左右されず面白い話になるだろうな、
という確信が出来たとき。
(同調論で言えば、話の中身と同調出来たとき)
お話というのは、
具体的な台詞だったり、
シーンの順番だったり、
絶妙な芝居だったり、
伏線の消化だったり、
神がディテールに宿るものである。
さらにその上にビジュアルやら音楽やらのガワを被せて作るものだ。
しかしそれと関係ない、「話」という、
形のない抽象的なものが、
きちんと出来て、
ディテールはそれを的確に表現しさえすれば、
どんなディテールになっても(多少ぶれても)面白いだろうな、
と思える時が、
話そのものの完成だ。
ここから別の脚本家に頼んだり、
別の監督がやるとしても、
この話の面白さは揺らがない、
と思えるだけの話が出来た時が、話の完成である。
具体例を。
ドジで間抜けで楽をしたいのび太が、
困ったことがあってドラえもんに道具を借り、
問題を解決するのだが、
持ち前の悪いところが出て道具を悪用し、
結局ひどい目に合う、
という抽象的な話は、
「ドラえもん」という話である。
ここには未来から来たロボットが、
のび太のぐうたらを是正するために来たという設定は生きていても、
青い猫型などのディテールはない。
具体的な困ったことや道具のディテールはないが、
困ったこと、やり過ぎて自業自得に陥ることの、
因果関係とその面白さはある。
どんな道具が来ても、この話の面白さは揺らがない。
どんな事件(スネ夫の自慢とか、ジャイアンのいじめとか、
先生がなんとかとか)が来ても、この話の面白さは揺らがない。
例えばどこでもドアで、
「どこでもすぐ行ける」ことをやり過ぎて、
しずかちゃんの風呂に侵入してぎゃふん! という落ちにするか、
番犬の向こうに行こうとして尻尾をふんでやっぱり噛まれるという落ちにするかは、
ディテールの違いに過ぎず、これは同じ話だ。
ドラえもんは、
同じ話の、道具と事件違いをやっているのだ。
これをマンネリパターンという。
これがどこでもドアを使って、
「魔境を冒険し、一日が終わったらどこでもドアで帰ってきて、
明日はその続きの場所から冒険をはじめる」
という使い方をしたら、
「ある日どこでもドアが壊され、冒険に強制的に参加させられる」
という話は全く別の話だ。(映画版のび太の大魔境)
ここには、やり過ぎてぎゃふん!の話のパターンはない。
ドラえもんのレギュラーパターンは強力だ。
ループして使い回せるほどにだ。
逆に、「面白い話が出来た」のなら、
バリエーションはディテールで無限に作れるということだ。
リライトの時に、
「これは話としてまだ出来ていない(不完全である)」と気づくときがある。
ディテールの面白さに惑わされて、
数行でプロットを書いたときに、
なんだか変だ、とようやく気づくのである。
てんぐ探偵35話「夏祭りの記憶」がまさにそうだった。
スイカ畑や赤い風車や親父を演じるクライマックスに誤魔化されて、
実は肝心の「心の闇に取りつかれたきっかけ」を、
作っていなかったのだ。
てんぐ探偵は、主に、
「○○という心に妖怪が取りつき、
これが△△という心に変化することで妖怪が外れる」
というパターンを話の根幹に持っている。
実はこの話は、
第一三共の認知症CMの第三弾のショートフィルム用に書かれた話をベースにしている。
だから、志乃は最初から認知症であり、
妖怪「ボケ」に取りつかれた訳ではなく、
単純に認知症で神社にたどり着いて、
敏男が家に帰らせるために親父の真似をする、
という話だった。
これを妖怪退治ものに組み替えるとき、
クライマックスばかりきちんと書いていて、
肝心の「何故忘れることに取りつかれたのか」が、
無いことに気づいたのだ。
これは何稿か経て、ようやく気づいたことだ。
しまった、認知症の話にはなっているが、
心の闇の話にはなってねえぞ、と。
ということで、クッキー缶のエピソードを足し、
忘れる恐怖や忘れられる恐怖について、
主に描き直すことにしたのである。
それはものや記憶でなく、大切に思うことだ、
というテーマを、上手く暗示できたと思う。
クッキー缶やセルロイドは、いわばディテールだ。
実は何でもいい。なかなかいいディテールだけど。
それよりも、なくなっていく恐怖を描くことが、
話が出来たかどうかに関係することだ、
と思えるかどうかなのである。
話が出来たかどうかは、
ディテールに左右されない、
絶対に必要なことは何か、
その最小限の組は何かについて、
一本筋道が通った時のことを、言うのではないか。
これは焦点がひとつのものについて考えている。
(てんぐ探偵なら妖怪退治、ドラえもんなら道具を使う)
複数の焦点が絡み合う、
より複雑な話についても、
原則は同じだ。
ディテールではなく骨格だ、 というのは、そういうことだ。
骨格が出来てなくても、話は書けてしまう。
ディテール優先で、
それを描くことに夢中になって。
特に小説なんかは描写という楽しみがあるから、
そればっか書いちゃって楽しくなっちゃってることもあり得る。
小説は話ではなく描写だ、という説もあるとは思うので、
非難はしない。
しかし脚本は、ディテールではなく話を作ることがメインであるから、
それらに惑わされないようにすることが肝要だ。
(ひょっとすると、シナリオライター出身の小説家は、
描写よりも作劇に力を入れるから、構成がしっかりしているなどと言われて、
小説畑の純粋培養だと、描写とは、なんてやってて、
話の方が出来てないパターンが多いのかも知れない。
小説は、描写が大事なのか話が大事なのかは、僕は小説について一家言あるわけではないので分からない。
確実に言えるのは、シナリオにとっては、ディテールより骨格であり、
話が出来ているかどうかだ。
小説の映画化が何故失敗するか、という話にも関係することだ。
描写はフィルムのディテールとは違う。
極端に言うと、描写は捨てられ、作劇のみがシナリオに変換される。
そのとき、強度の弱い物語は、映画としてへぼくなるのである。
「ノルウェイの森」は、多分そうだろう。
80年代はディテールの差異を競う時代であり、
その差異が流行を生む時代だった。まだ読んでないのであれだが、
描写が良くて、話の出来はたいしたことない小説ではないか、
と状況証拠が言っている)
じゃあその骨格って?
ジャーナリストになってみよう。
事件、経過、結果を、ジャーナリストとして記事に書くことを想像しよう。
こういう理由で事件が起き、
当然皆はこういう反応や行動をし、
その中で特別こうだということをした人が、
このように考えてこのように解決した、
などのようにだ。
理屈の糸、と僕はよく表現する。
話が出来た、とは、それがちゃんと途切れない一本になり、
しかも面白い時に限るのだ。
それさえ出来れば、あとはディテールを詰めていけるし、
ディテールに左右されず、
面白い話になるだろう。
極論すると、その作劇をする人が脚本家、
そのディテールを詰めるのが監督の仕事だ。
実際には重なりあい融合しているけれど。
2015年04月18日
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