他人のやってることをまるで自分がやってるように思うこと。
他人と自分の中に同じようなものを見つけること。
同調が人間の基本的性質であり、楽しみであると仮定しよう。
物語への特別の同調を見るために、それ以外の同調を見てみよう。
例えばスポーツ観戦。
例えばバラエティー、ワイドショー。
これらは、
物珍しいものを見たいという見世物小屋的なものと、
同調を楽しむものだ。
これらの同調は、実在のものへの同調だ。
実在の選手、チーム、あるいは日本代表への同調、
芸能タレントへの同調。
(複雑な殺人事件で、「犯人には心の闇がある」として、
その心の闇にレッテルを貼り、中に立ち入らないようにすることがある。
これは、犯人への同調の拒否である。
我々は自分の心の闇と、犯人の心の闇の同調を嫌う)
一方、物語への同調は特別だ。
嘘だと分かって同調するのである。
嘘に同調するのは、
現実では、嘘だと分かっててもサプライズプレゼントに引っ掛かってあげる、
など、本気での同調はない。
本気で嘘に引っ掛かったら、現実では騙したほうが悪い。
嘘は悪だ。
嘘に同調させられることは、人は嫌なのだ。
(浮気するなら、気持ちよく浮気なんてしてないと騙してよ、
などのように、「嘘の同調」が嫌なのだ)
ところが、物語への同調とは、
それと逆の特徴を持っている。
人は、フィクションだと分かってて、同調するのである。
つまり、同調する目的で同調しに来るのだ。
フィクションと分かっているから、
現実と遠いもののほうがいい。
(これがガワの面白さに関係する)
しかし、同調するからには、
現実と遠すぎるものには無理だ。
(ロボットの思考には同調出来ない。エンジニアやプログラマーは出来るかもだ)
同調のリアリティーは、
我々が普段接しているレベルの同調のことである。
このレベルの同調でないと、人は同調を拒否する。
例えば、普段同調を拒否しがちな、
犯人の心の闇という題材は、
前者の候補だ。
どうせフィクションなのだから、
現実と遠いものを見たくなるからだ。
ところが、実際にこれと同調することは、
人は拒否する。
本当の負の心に同調するのは、かなりキツイ。
落ち込んでる時や鬱のときなら、同調しやすいかもしれない。
(この手の最悪の負の心を描いたものに、
「レクイエム・フォー・ドリーム」がある。
人の心の闇に興味があるのなら、
一度は見ておくべき最悪のバッドエンドのひとつだ)
で結局、母親への歪んだ愛情が、
とかの、「我々が同調可能なこと」を持って、
我々の同調を誘うような構造になり、
結局詰まらなくなるのだけど。
変わった題材に同調するのは目新しい。
しかしよく分からないものに同調するのは、なんだか遠慮したい。
よく分かっているものに同調するのは安心だが、
飽きるのは嫌だ。
これらの要求を満たすために、今日も新しい物語が生まれている。
さて。
不思議なのは、映像などを介さなくてもそれが起こることだ。
小説や、飲み屋での話のように、
文字だけでそれが起こる、というのは、
考えてみるととても変だ。
目の前で動いてる人なら、思わず同調が起こるのは分かる。
しかし、文字なのだ。
字で書いてあるだけのものに同調が起こるのは、
人類だけのものではないか。
(宇宙人はどうだろう)
小説における感情移入や同調を研究することは、
お話そのものの謎に迫ることになるかも知れない。
おそらくだけど、
あるシチュエーションに置かれたことの面白さ、
それへの反応のリアリティー、などの、
映画ででも共通することが、鍵ではないかと思っているが。
フィクションへの同調。
嘘への進んでの同調。
これが、物語への同調と、他を分ける唯一絶対の違いだと思う。
2015年04月18日
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