2015年04月18日

同調すること12:物語とそれ以外の同調

他人のやってることをまるで自分がやってるように思うこと。
他人と自分の中に同じようなものを見つけること。
同調が人間の基本的性質であり、楽しみであると仮定しよう。

物語への特別の同調を見るために、それ以外の同調を見てみよう。

例えばスポーツ観戦。
例えばバラエティー、ワイドショー。
これらは、
物珍しいものを見たいという見世物小屋的なものと、
同調を楽しむものだ。


これらの同調は、実在のものへの同調だ。
実在の選手、チーム、あるいは日本代表への同調、
芸能タレントへの同調。
(複雑な殺人事件で、「犯人には心の闇がある」として、
その心の闇にレッテルを貼り、中に立ち入らないようにすることがある。
これは、犯人への同調の拒否である。
我々は自分の心の闇と、犯人の心の闇の同調を嫌う)


一方、物語への同調は特別だ。
嘘だと分かって同調するのである。

嘘に同調するのは、
現実では、嘘だと分かっててもサプライズプレゼントに引っ掛かってあげる、
など、本気での同調はない。
本気で嘘に引っ掛かったら、現実では騙したほうが悪い。
嘘は悪だ。
嘘に同調させられることは、人は嫌なのだ。
(浮気するなら、気持ちよく浮気なんてしてないと騙してよ、
などのように、「嘘の同調」が嫌なのだ)

ところが、物語への同調とは、
それと逆の特徴を持っている。

人は、フィクションだと分かってて、同調するのである。
つまり、同調する目的で同調しに来るのだ。

フィクションと分かっているから、
現実と遠いもののほうがいい。
(これがガワの面白さに関係する)
しかし、同調するからには、
現実と遠すぎるものには無理だ。
(ロボットの思考には同調出来ない。エンジニアやプログラマーは出来るかもだ)
同調のリアリティーは、
我々が普段接しているレベルの同調のことである。
このレベルの同調でないと、人は同調を拒否する。


例えば、普段同調を拒否しがちな、
犯人の心の闇という題材は、
前者の候補だ。
どうせフィクションなのだから、
現実と遠いものを見たくなるからだ。

ところが、実際にこれと同調することは、
人は拒否する。
本当の負の心に同調するのは、かなりキツイ。
落ち込んでる時や鬱のときなら、同調しやすいかもしれない。
(この手の最悪の負の心を描いたものに、
「レクイエム・フォー・ドリーム」がある。
人の心の闇に興味があるのなら、
一度は見ておくべき最悪のバッドエンドのひとつだ)

で結局、母親への歪んだ愛情が、
とかの、「我々が同調可能なこと」を持って、
我々の同調を誘うような構造になり、
結局詰まらなくなるのだけど。


変わった題材に同調するのは目新しい。
しかしよく分からないものに同調するのは、なんだか遠慮したい。
よく分かっているものに同調するのは安心だが、
飽きるのは嫌だ。

これらの要求を満たすために、今日も新しい物語が生まれている。


さて。

不思議なのは、映像などを介さなくてもそれが起こることだ。
小説や、飲み屋での話のように、
文字だけでそれが起こる、というのは、
考えてみるととても変だ。

目の前で動いてる人なら、思わず同調が起こるのは分かる。
しかし、文字なのだ。
字で書いてあるだけのものに同調が起こるのは、
人類だけのものではないか。
(宇宙人はどうだろう)

小説における感情移入や同調を研究することは、
お話そのものの謎に迫ることになるかも知れない。

おそらくだけど、
あるシチュエーションに置かれたことの面白さ、
それへの反応のリアリティー、などの、
映画ででも共通することが、鍵ではないかと思っているが。



フィクションへの同調。
嘘への進んでの同調。
これが、物語への同調と、他を分ける唯一絶対の違いだと思う。
posted by おおおかとしひこ at 19:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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