単なるびっくりワンカットショーやん。
単なるびっくりドラムソロやん。
単なるびっくり小道具の銃が本物で、やん。
他人の評は関係ないって言っといて、
ニューヨークタイムズに誉められたことが、
その落ちでいいのか?
ナプキンへのサインは捨ててよかったのか?
(これが「他人の評に右往左往することはバカらしい」という象徴の筈だが)
アンチハリウッド作品として、の受賞だろこれ?
ワンカット、全然すごくない。
そのへんのCMやPVのワンカット撮影のほうがちゃんとやってるよ。
ワンシーンの終わりと次のシーンの継ぎ目がバレバレ。
技術的にバレてる。
一番気になるのは、技術的にバレてることより、
前のシーンと後のシーンで、役者のテンションが変わってしまっていること。
モンタージュの単位のシーンではなく、
次のショットへの繋ぎの筈だから、
激しい感情のあとには、
その感情を引きずっているはずだ。
それが繋がっていないことが、
絵の繋ぎよりも気になった。
同じ問題は、ヒッチコックのワンカット映画「ロープ」でもあった。
イリニャトゥは、ロープを見てこの欠点に気づかなかったのか。
(観客のストーリーへの乗りを、カメラの移動するまで待つことで、
ダメにしているのもある)
今の技術ならプレイバックしてから、撮影をはじめることだって可能だ。
それをしていない。
或いは、数テイク撮って、編集で選ぼうとしている。
それがダメだ。
ワンカットは、あくまで一回限りの体験にしなければならない。
気持ちが繋がっていないのは、
ハサミが入っているのと同じである。
例を挙げれば、
シーンとシーンの間を、「移動」で繋いでいる。
階段での上下、ドアのあけしめ、外に出たり、
その前後で、まるで前のシーンを忘れてしまったかのように、
役者のテンションがなっている所が散見された。
おいおい、ちゃんと振り付けろよ、と文句を言いたくなった。
ということで、
この映画はハサミの入った作品として扱う。
とするとだ。
あの生意気な俳優は、何故最後勃起してないの?
何故ジンを飲まないの?
俺の舞台だ、に従ったの?
娘とセックスしたあと、どうなったの?
何のために出てきたん?
日焼けマシンは役のために本当にいるの?
専門的に言うと、サブプロットが、
テーマのサブ問題になってないんすわ。
さて、テーマの話をしよう。
他人の評は気にするな?
下らない映画へのアンチテーゼが、スーパーリアリズムで、
それが鼻を銃で打つこと?
子供っぽ過ぎないか?
娘と一緒にいれなかったことへの昇華は、
作品の批評的成功で良かったの?
モヤモヤが作品の批評的成功で報われ、
心が自由になった、という表面的な話過ぎないか?
つまり、演劇もなめてるし、映画もなめてる作品に思えた。
僕は見ている途中、
あの超能力は、主人公の妄想だというミスリードにみせかけ、
ラストの弾丸を止めるという落ちかと思っていた。
それ以降超能力を失う話なのかと。
処女を失うと魔法が使えなくなる、
その代わり人間になる、という話なのかと、
ラストシーンに期待した。
ラスト、死のうが生きようが空を飛ぼうがどうでもいい。
彼の中で何も解決していないことが、脚本的問題だと思う。
CG全盛の今のハリウッドにカウンターを打つことが、
銃で鼻を打つこと?
馬鹿馬鹿しすぎね?
先程コメント返しにも書いたけど、
アンチハリウッド作品は、時々こうして賞を取る。
それは、この作品が素晴らしいからではなく、
アンチハリウッドを主張するのに、御輿に担ぎ上げやすいからだ。
みんなハリウッドに嫌気がさしているが、
どうやって倒したらいいか分からず、
こうやってゲリラの新しいヘッドを探すだけしか出来ないのだ。
「桐島、部活やめるってよ」の受賞も、
アンチ東宝の結果だと思う。
作品として優れていることを期待しても、
アンチムーブメントは無駄だ。
ロックやパンクは作品として優れているのか、
という問いと同じである。
破壊衝動はいいけど、
破壊し尽くした先はどうするの?
ということは、妖怪「いい子」(リライト版)でも少し書いたことだ。
バードマンは、アンチハリウッド作品だ。
変わったトリック撮影、
実在の映画界への揶揄、
変わった音楽(アンチオーケストレーション)、
何もかもが、反抗こそ正義の様相である。
これを抜けた先には、何もないことが、
良く良くこの脚本を抽出してみると分かる。
何故妊娠がなかったのか?
あのサブプロットは、テーマに寄与した?
ネットを拒否することは、なんだったん?
ツイッター8万フォローがなんなん?
結局他人の評があればそれでいいの?
ワンカットのドキドキを優先して、
話が詰まらなくなってるよ。
2015年04月19日
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