2015年04月19日

ただのトリック撮影2

問題は、ワンカット撮影が、
内容の何を表現するための手法だったか、
ということにある。


臨場感や没入感?
ワンカット撮影でしかそれが表現できないのだとしたら、
演出として未熟だと思う。
カット割ってたブラックスワンのほうが後半の没入感はあった。

同調の理論を考えると、前半戦の「世界に同調するまで」は、
ワンカット撮影は有効だが、それ以外は有効ではない。

ワンカット撮影が機能したのは、
トップから、劇場内の稽古にいって役者たちのテーブルを回るまでと、
煙草を吸うため閉め出されパレードにパンツ一丁でいくところと、
屋上で娘とエドワードノートンが話してキスするまでと、
バードマンが現れて飛び降りようとして空を飛んで妄想する、
四ヶ所のみだ。あとは、分かりにくいだけになった。

第一ワンカット撮影だと、物語の基本である「人の対立」が、
カットバックで描けず、大変まだるっこしいものになった。
主人公対批評家、主人公対娘、主人公対エドワードノートンの殴りあい、
主人公対別れた嫁などが、
対立として描ききれていない。

エドワードノートンと娘の屋上がうまくいったのは、
対立でなく同調だったからだと思う。

つまり、ワンカット撮影が機能したのは一人芝居、同調芝居だけなんだよね。

物語とは対立のことだ。
それを描くのに、テニスの試合みたいに左右にカメラを振るわけにいかないから、
ずっとカメラが追いきれてない感じがした。
だから対立がうまく写せていなかった。
これは演出として失敗だと思う。


繋がっているかんじ?

前記事で指摘したように、
繋げるために無理をして、
実際のところ繋がっていない。
(空で無理矢理繋いでて、実質シーン割ったのもあるし)

例えば、批評家と対決してウィスキーを買う下り、
長すぎる。
批評家と対決→泥酔→目が覚めて本格的にバードマンが出てきて空を飛ぶ
という流れなら、
間の泥酔は、カット割って、
買う→飲む→飲む→フラフラ、倒れる→目が覚めると、
ぐらいの5カットぐらいに短く刻んだほうが、
さっさと次へいけるはずだ。
(最も短くてすむのは、バーの中で彼女が残したドライマティーニ?を飲み干し、
カット割って、
店の引きで、出てくる主人公の片手にウイスキー、飲みまくる、
というワンカット。カット割って目覚めるアップ、の編集だ)

これをタルくないようにして、なおかつワンカットを保つため、
ウイスキー屋(酒屋?)に、不必要な電飾で目を楽しませて時間を稼ぎ、
変なオッサンが詩を読んでいるという体で、
ずっと声を聞かせている。
これは移動の時間がかかることを、
絵と音でごまかしているに過ぎず、
内容(つまり、批評家にズバリと言われて泥酔する)ことへの、
明らかなノイズになっている。
「芝居の幅を見せたかったんだ」というリフレインは、
なんの意味?下手なことの象徴?
だとしたら、主人公自身が批評家にその台詞をいい、
外の奴と一緒じゃないかとハッとするべきでは?


内容に対して、ワンカットが足かせになっているのだ。

つまり、再び問う。
ワンカット撮影の意味って?


やりたかっただけやろ?



だからラストも賛否両論の、
主人公は死んだのか死んでないのか分からないことで、
「ごまかさざるを得ない」。
ウイスキー屋が不自然な電飾で誤魔化していたように。

僕はラストを見たとき、ああ、こいつ誤魔化して逃げたな、と感じた。
インセプションがコマを倒して結論を示すことから逃げたように、
「陳腐な結論を示して舐められるのが怖いから、
結論を濁すことでより高尚に見えるようにする」
という逃げを感じた。
「私が好きなのか好きじゃないのかハッキリしないから、
私はあなたにリアクション出来ないの!」という女の気分だ。
「自分が何かを言う責任から逃げている」と思ったのだ。
「告白しなさいよ!男らしくない!」と思ったのだ。


ラストが曖昧だから賞を取った訳じゃない。
ワンカット撮影だから賞を取った訳じゃない。
他のハリウッド作品が画一的なものばかりになる流れで、
それに一石を投じたいと考える人達が、
投票しやすい目立ち方をしていたから、
投票が集まったに過ぎない。


本当にテーマを示し、技法でなく内容で勝負するのなら、
「落ちぶれて妄想ばかりに逃げる分裂ぎみな男が、
自身の分裂を納めて成功を手にする」
というログラインの作品にするはずだ。

ところが、ログラインには、
「何故、どうやって、この男が成功を手にするのか」
が欠けている。
まさか、鼻を銃で打つリアリズムが成功の理由になる?
そんな馬鹿な。それこそリアリズム不足だ。

つまり、このログラインの段階で、
この映画は大したことない作品になるから、
それを「驚きの手法」という、
ガワで勝負しただけなのだ。


撮影賞、監督賞はあげてもいい。
脚本賞と作品賞はあげちゃだめでしょ。

つまり、それだけハリウッドが行き詰まっているのではないかなあ。



この混迷した世の中に、
どんなテーマを言うべきか?
殆ど何でも出来るようになった映画界が、
脚本だけに飢えている。
それこそ、脚本家の仕事が完璧でないと、
他が何でも出来るだけ、
ばれやすくなっている。

脚本だけは、テーマだけは、
誤魔化せないのだ。

さあ、脚本家の時代だ。
正確に言えば、脚本家だけが責任を負わされる時代だ。



バードマン?あんなものただのトリック撮影びっくりショーやん。
何にも言ってへんわ。
posted by おおおかとしひこ at 11:07| Comment(1) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
全くその通りだと思いますね
前に仰られてたやりたいことをしたいためになっていて
登場人物とか色々映画としてなってないんだなと思います。

大体この手の映画が好きな人になにが面白いのか、好きなのかと聞いてもちゃんとした答えが返ってこないんですよね。
論点をすり替えたり、酷い時は映画そのものを分かってないとか言い出す始末ですし。
なんとなく他の人が言ってたからとか、批評家が褒めてたからとかで好きなだけなんだろと思ってしまいますね。

本当に好きだったり面白かったのならきちんと具体的な答えがでてくるはずですから。
Posted by kentya at 2015年04月19日 13:24
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック