2015年04月19日

引き受ける覚悟

そのテーマについて、
誰よりも広く、深く考えること。

だから、どんな批判が来ても別に怖くないし、
驚かない。
そんなことはとうに考えて、
それへの再反論も作品の中に込めてある筈だからだ。


作品を発表したあとに色々言われて、
傷ついたことのない作家はいない。
自分の意図が伝わってないのは論外。
自分の意図が理解され、
アホかこういう可能性に気づかんかったのかと指摘され、
どうしてそれに気づけなかったのかと落ち込むのが普通。

これを繰り返して、作家は強くなる。
つまり、独りよがりから、
作品を作るごとに、
深く、広く考えるようになる。

テーマを言うことは、その反論を想定することである。
「○○が言いたい」で終わるのは、
ただの言いたいボウヤで、
ただのチンコ出しで、
ただのバカだ。
△△という反論、××という反論が当然出るだろう、
という予想をしていないということだからだ。

○○である、しかし△△、××ではないか、
いえいえ、□□なので、
やはり○○なのですよ。
なるほど、深い!

ぐらいは考えているものだ。


○○である、しかし△△、××ではないか、
いえいえ、□□なので、
やはり○○なのですよ。
いやいや、だとしても◎◎ではないか、
ええ。しかし▽▽なので、
やはり結論は○○になるでしょうね。
確かに。

ぐらいも考えているものだ。


ためしに、「チンコを出す」でやってみよう。

私のチンコは出すべきです。

いやいや、犯罪でしょ!

いいえ、みてください、この美しいチンコ。
犯罪なのは、猥褻だからでしょ?
このチンコに猥褻さも汚さもない、
見事な美しいチンコです。
他のチンコは知りませんが、私のチンコは出すべきです。

たしかに、美しい。猥褻さの欠片もない。
しかし犯罪でしょ。

犯罪の概念を変える美しいチンコだからですよ。
犯罪は、劣情をもよおす、猥褻で汚いチンコのことです。
このチンコは、ただただ美しい芸術です。
猥褻とは程遠い、神々しいチンコです。
だから皆で共有すべきなのです。
チンコが猥褻で汚いものを指すのなら、
これは別の名前で呼ぶべきです。
たとえば、「ノルウェイの森」としましょう。

確かに!これはチンコではない!ノルウェイの森だ!



わざと馬鹿馬鹿しくしてみたが、
美しい芸術的チンコが本当に存在するのなら、
おそらくこのような論争で、
彼の「ノルウェイの森」はもろ出しにしても良くなるだろう。
(美しいチンコのネタは、
喜国雅彦「日本一の男の魂」から拝借。
このネタは傑作です。そのチンコが漫画なので、
描かれていない=存在しないというメタまで含めて完璧)


つまり、
チンコを出したいのなら、
皆が納得する理由と、
その根拠となるチンコがちゃんとしてなければならない、
ということだ。

その理由通りの、素晴らしい、本物だけが、
どんなに叩かれても、
叩く方の負けになる。
何故なら叩く方が無理解でバカだからである。


バードマンは、無理解でバカが引っ掛かる。
オイオイテーマを誤魔化すんじゃねえよ、
と思う人は、たいしたことねえな、と看破出来る。
つまり、バカ発見器である。


あなたが何かのテーマを言うのなら、
本当に価値のある、
本物のテーマを言おう。

それは、今の日本では、
30歳以上にならないと経験できない人生体験からしか、
生まれないような気がする。
10代20代の言うことなんて、
何にも分かっちゃいない青二才の戯言だ。
(日本のポップスが死んだのは、シンガーソングライターだらけになり、
青二才の大したことないテーマ、
つまり恋愛のいざこざとか、応援ソングとかばかりになり、
人生の酸いも甘いも知った大人が書く、作詞家という職業が、
駆逐されたためである。
つまり、人々にとっての大きなテーマを書く人が駆逐された)

漫画の映画化が何故成功しないのか?
それは、映画にするほど価値のあるテーマが、
そもそもその漫画にないからである。
漫画のガワの派手さが受けていて、
映画としての本物のテーマがないからだ、
ということに、誰も気づいてないのだろうか。

(ドラマ「風魔の小次郎」は、原作にないテーマを埋め込んだ。
原作にテーマはない。ないのは漫画として成立するかも知れないが、
ドラマとしては成立しない。
例えば風魔の続き、聖剣戦争は映画になるか?
漫画のままではならない。
「輪廻してでも地球を救う」という凡庸なテーマが、
映画として面白いとは限らないし、
「輪廻してでも地球を救う」を本当のテーマにするなら、
そのモチーフは聖剣戦争でない気がするからだ。
つまり、あのガワが成立するための、
本物のテーマを、作らなければならない)



最近のCMは、クレームを恐れて表現がマイルドになって詰まらない。
最近のテレビもだ。

しかし、それが本当に価値のあるテーマを歌っているならば、
ちゃんと反論して、
確かに!と言わせられる筈だ。

それは正論を言え、ということを意味しない。
それをどうしても言いたい、
それは私の個人的な理由ではなく、
人類全員にとって価値があると信じるからである、
という強い確信がなければならない。

今のCMやテレビにないものは、
その確信である。

それがないから、それを誤魔化すのだ。
バードマンのように。

そう言えば、最近のCMでは、
メッセージが面白くないから、
見た目を面白くするためにワンカット撮影する、
トリック撮影型のCMが増えた。
バードマンと同じだ。



あなたは、何を言うのか。
それにあなたは慣れなければならない。
作家として未熟なうちは、
叩かれ、傷つくだろう。

未熟な作家でない、とは、
本当に価値のあるテーマを言い、
そのことについて、誰よりも深く、広く考えた人であり、
だから反論されても簡単に反論でき、
それら全てが起こったとしても、
なお価値のあるテーマを言う、
覚悟の出来ている人のことだと思う。


僕は長年CM業界で、
そんな作家が殆どいないことにずっと苦しんできた。
一部の名作を作った人はとうにいなくて、
未熟なクライアントのチンコを、
それなりに見れるように整えるだけの仕事にうんざりだ。

それは作家として、ちっとも鍛えられていなかったということだ。


そんなことに気づいたのは、ここ五年ぐらいだ。
だから、てんぐ探偵を作ろうと思ったし、
映像化が難しいなら、慣れない小説の形でもいいから、
作るべきと思ったから書いている。
どんな批判も受けられるし、反論出来る。
それは、多分誰よりも深く広く考え、
心の闇のこと、天狗のことを引き受ける覚悟が出来たからだと思う。
posted by おおおかとしひこ at 12:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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