脚本ばかり書いてきた僕が、
小説を書いてみて分かったこと。
小説の地の文では、
頭に浮かぶ映像を、文章で記録するのは間違い。
結論からいうと、
「理解が進むのがワクワクするように書く」
といいと思う。
小説をよく読む古い友人に、
てんぐ探偵を読んでもらったときに指摘されたことがある。
第一話のクライマックス、
屋上でミヨちゃんの自殺を止めるシーン。
シーンの冒頭の情景描写で、
僕はシナリオの癖で、分かりやすく、
「クラスのミヨちゃんが、屋上のフェンスに足をかけ、
自殺しようとしていた。」
のように書いた記憶がある。
シナリオではなんら問題ない。
むしろ簡潔に状況が分かり、
絵で状況を表現することが読み取れる、いいト書きであった。
しかし地の文は、ト書きではないのだ。
状況描写を克明にすればいいのかと勘違いした。
空は高く緩い風が吹いて、などを足してみたが改善されなかった。
複雑になっただけだ。
彼女の主観で書いてみた。
それも状況を分かりにくくするだけで、
「自殺した男を止められなかったのと、同じ状況」という、
シンイチにとって最もプレッシャーのかかる場面という面白さがなくなった。
視点は三人称もしくはシンイチ一人称であるべきだ。
「『自殺しようとしていた』などと小説では書かない」と、
友人はヒントをくれたが、答えはわからなかった。
それが何故小説ではダメで、
シナリオではOKかも。
シナリオは最終的に絵があり、
小説では文しかない、ということがその決め手だと思った。
シナリオは、絵を撮る指示を書く。
このような意味に取れる、絵を撮って下さい、
という指示書でもある。
観客は、絵を見て意味を読み取る。
読み取ることが、映画を見る楽しみのひとつだ。
ミヨちゃんの芝居を見て、ははあん、彼女は自殺しようとしている、
それは前の自殺した男と同じシチュエーションだぞ、
と、「読み取る」ことが楽しいのである。
絵が、地の文に相当すると気づいたのだ。
絵から意味を読み取るように、
地の文から意味を読み取る楽しみが、
地の文にはあるべきなのだと。
つまり、意味の答えを書いては詰まらないのである。
これは明らかに彼女が自殺しようとしている、
これはあの男の自殺を止められなかった場面の、
偶然の再現だ、
と読者が読み取る楽しみを提供するように、
書くのが地の文なのだ。
それが30話書いてやっと分かってきたので、
リライト版のその場面は、
そのように書き直した。
ドキドキして、ミヨちゃんをなんとかして止めなければ!
と思わず思ってしまうように、書き直した。
それは、地の文から、意味を読み取ったからだ。
(以下引用)
妖怪「弱気」は走って逃げ、古いマンションにとびこみ、階段をのぼっていった。
シンイチは必死で走ってのぼった。十階はのぼっただろう。屋上に出た。大天狗は
太った猫ネムカケを抱いて軽く屋上にひと跳びして、後方にどっかと座った。
妖怪「弱気」は、何も無計画にそこに逃げた訳ではなかった。そこに「仲間」が
いたのだ。巨大な妖怪「弱気」。先程身を投げた男に憑いた奴よりも、更に大きな
奴だった。「弱気」はその大「弱気」にかけより、融合した。その分だけ大「弱気」
は、大大「弱気」となった。その「心の闇」は、一人の少女に取り憑いていた。彼
女はシンイチに気づき、振り向いた。
「ミヨちゃん!」
シンイチのクラスメート。今朝おはようと声をかけてくれた、明るくて優しい女
の子。彼女の頬はこけ、目が虚ろだった。あの男と同じだ。いや、オレもそうだっ
たのかも知れない。彼女は小さく笑って、金網のフェンスに手を掛け、一歩一歩の
ぼり始めた。
「ミヨちゃん、ダメだ!」
彼女の手は震えている。冷や汗もだ。あの男と、オレと同じだ。きっとこれは
「弱気」に取り憑かれる症状なんだ。
「飛び降りるつもり!? そんなのダメだよ! 下りて! ミヨちゃん!」
(引用ここまで)
その空間のセットアップ→弱気→その宿主の正体→フェンスに一歩一歩よじのぼる
などのように、注目点を移動して、
何が起こっているか、理解するのがワクワクするように書いている。
これが映像のシナリオなら、
準備することを書き、起こっていることの意味をなるべく簡潔に書く。
屋上ではミヨが自殺しようとしていて、
背中に巨大な弱気がいて、逃げてきた弱気はその背中に融合、
と簡潔にあることを書くはずだ。
カメラは全部を写す。
屋上、ミヨちゃん、巨大な弱気は、
ワンセットで写る。
部分は写せない。
「屋上にいる、巨大な弱気がとりついたミヨちゃんが、
自殺しようとしている」しか写せない。
ところが、地の文は伏せることが出来る。
弱気のことを書き、(その間ミヨちゃんかどうかも、自殺しようとしているかも伏せ)
その宿主がミヨちゃんであることを書き、(自殺しようとしていることは伏せる)
最後に自殺しようとしていることを書くことが出来る。
カメラだったら全部いっぺんに写ってしまうことを、
意味を順番にわざと書いていけるのである。
どんなに弱気をアップで撮っても、
女の子の背中は写るだろう。
弱気が融合している間、その女の子は待っているのか。
いや、フェンスに登り続けているはずだ。
映像ならこんな破綻が起こるのに、
小説の地の文では、
映像に撮ることの出来ない、
「意味の理解の順番」を書くことが出来るのだ。
映像と小説は違う。
映像は絵を見て意味を読み取る楽しみだ。シナリオは、その設計図を書く。
小説は、文から意味を読み取る楽しみだ。
それは作者が、いかように操作してもいいのだ。
そのクルーズが、文章を読む楽しみなのだ。
僕が小説家としてそのクルーズが上手いとは思ってないけど、
そのような違いがあること、
つまり地の文は、読み手をコントロール出来る、
ということは知っておいてよい。
だから、地の文は映像の記録でもなんでもないのだ。
「理解する過程が面白い」ように書けさえすれば、
相対性理論だって小説になるはずだ。
2015年04月19日
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