前記事のちょっとした結論、
相対性理論だって小説になるはず、
ということについての捕捉。
結論からいうと、数学は小説にならない。
小説猿というサイトがあって、
なかなか数学に対する面白い文章が多い。
僕は理系大学院卒なので、
大学数学はフーリエ展開と中心極限定理と、
制御理論で虚数空間に方程式を変換するぐらいは理解している。
だけど、相対性理論をやるうえでのテンソル代数につまづき、
その奥を見ていない。
テンソルがイメージ出来なかったのだ。
ところが、小説猿の中の人の見識に僕は蒙をひらかれた。
「数学とは、具体をイメージしないから意味がある」ということに。
つまり、n次元空間がイメージできないから、
n次元空間を理解できないのではない。
n次元空間を理解するためには、
イメージを捨てて、形式的な定義による理解に徹する、
機能主義が必要なのだと。
何を意味してるのか、何を本当はしているのか、は、
数学には、極端に言えば不要だ、
という慧眼に声をあげて驚いた。
たしか当時の助教授に、
君は数学を理解するには情念がありすぎる、
と言われたことがある。
イメージ力や言語力が、そのへんの理系学生よりずば抜けていたしね。
その先の数学の理解には、
意味やイメージは不要なのだ。
意味やイメージと無縁な所に、
数学の素晴らしさがあるのだ。
(そのことを妖怪「正解」で書こうとしたけど、
ものすごくはうまくいってないよね。主題は別のところにあるからね)
相対性理論は、小説になるか。
イメージや意味を読み取ることが、小説の本質だとすると、
その本質的面白さが、
形式的な数学だとしたら、小説には出来ないだろう。
しかし相対性理論は、物理学であり、
この世の何か具体的なものの数学的関係に関する学問である。
ということは、イメージや意味が、発生するはずだ。
だから小説になる、と断言してみたのだ。
相対性理論は、結果だけ見れば奇妙だが、
理論の正しさは色々検証されている。
さらにその先の大統一理論やひも理論が、
うまく世界を説明できるのなら、それも小説になるだろうね。
純粋な数論は、小説にはならない。整数論とか。
物理学から発展した数学は、小説になると思う。
脚本論から離れすぎたので、雑談はここでおしまい。
でもね、「世界はどのように出来ているか」は、
道具が違うだけで、物理学も小説も脚本も、一緒だと思うよ。
(僕の子供の頃の夢は、天文学者と漫画家でした)
2015年04月19日
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