2015年04月19日

文章と数学

前記事のちょっとした結論、
相対性理論だって小説になるはず、
ということについての捕捉。

結論からいうと、数学は小説にならない。


小説猿というサイトがあって、
なかなか数学に対する面白い文章が多い。

僕は理系大学院卒なので、
大学数学はフーリエ展開と中心極限定理と、
制御理論で虚数空間に方程式を変換するぐらいは理解している。
だけど、相対性理論をやるうえでのテンソル代数につまづき、
その奥を見ていない。
テンソルがイメージ出来なかったのだ。

ところが、小説猿の中の人の見識に僕は蒙をひらかれた。
「数学とは、具体をイメージしないから意味がある」ということに。
つまり、n次元空間がイメージできないから、
n次元空間を理解できないのではない。
n次元空間を理解するためには、
イメージを捨てて、形式的な定義による理解に徹する、
機能主義が必要なのだと。
何を意味してるのか、何を本当はしているのか、は、
数学には、極端に言えば不要だ、
という慧眼に声をあげて驚いた。

たしか当時の助教授に、
君は数学を理解するには情念がありすぎる、
と言われたことがある。
イメージ力や言語力が、そのへんの理系学生よりずば抜けていたしね。
その先の数学の理解には、
意味やイメージは不要なのだ。
意味やイメージと無縁な所に、
数学の素晴らしさがあるのだ。
(そのことを妖怪「正解」で書こうとしたけど、
ものすごくはうまくいってないよね。主題は別のところにあるからね)


相対性理論は、小説になるか。
イメージや意味を読み取ることが、小説の本質だとすると、
その本質的面白さが、
形式的な数学だとしたら、小説には出来ないだろう。
しかし相対性理論は、物理学であり、
この世の何か具体的なものの数学的関係に関する学問である。
ということは、イメージや意味が、発生するはずだ。
だから小説になる、と断言してみたのだ。

相対性理論は、結果だけ見れば奇妙だが、
理論の正しさは色々検証されている。
さらにその先の大統一理論やひも理論が、
うまく世界を説明できるのなら、それも小説になるだろうね。

純粋な数論は、小説にはならない。整数論とか。
物理学から発展した数学は、小説になると思う。


脚本論から離れすぎたので、雑談はここでおしまい。

でもね、「世界はどのように出来ているか」は、
道具が違うだけで、物理学も小説も脚本も、一緒だと思うよ。
(僕の子供の頃の夢は、天文学者と漫画家でした)
posted by おおおかとしひこ at 14:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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