2015年04月19日

ただのトリック撮影3

kentyaさんのコメントに答えつつ、
議論を深めますか。


2ちゃんの現行スレを一通りみて、驚いた。
「主人公は死んでいて、ラストの病室はその時の夢」
という解釈に。

この映画には生きてるのか死んでるのか分からない所が2箇所ある。

舞台での拳銃自殺で、死んだのか生きてるのか。
ラスト病室からいなくなったのは、死んだのか生きてるのか。
都合3通り、組み合わせがある。
そのどれも解釈可能だ、というのと合わせて、
4通りに解釈可能な結末がある。

「病室は夢」説は、拳銃自殺で死んだという結末だ。


さて。この映画の脚本的問題点は、
そのどれになったとしても、面白くないことだ。

死んだ→夢だった:自殺して妄想するしかないぐらい、世界は残酷だ?
生きてた→死んだ:人生の絶頂で死ぬのがいいね(最後の笑顔の意味不明)
生きてた→生きてた:認められることが人生だ(じゃあ、何故上を見たのか?鳥になったから?)
どれもある:その全部のどれとも決められないのが人生だ(じゃあそもそも作らんでもええやん。
一生シュレディンガーの猫やっとけや。バタフライエフェクト見てこい)

一応僕は3番だと考えているが、
だとしても整合性が取れていないことは前に書いた。
サブプロットが、メインテーマの裏や補強になってない。


僕は最後に彼が窓をあけたとき、
娘が帰ってきて、こんな会話をするのではないかと妄想した。

「舞台にはしばらく出れないし、今日から毎日お前といるよ」
「え?やだ、気持ち悪い」
おどろき、笑う主人公。

つまり、「普通の日常」をようやく取り戻した、というラストだ。
家族の再生をメイン軸にするのなら、
このラストがベストに近いと思う。

が、それはメイン軸にはなっていない。
前半は生意気な役者とのケンカや、
ゴタゴタをうまく行かせることがメインで、
失われた家族の絆は裏で描かれているだけだ。


オープニングは何だったか。
座禅だ。
彼の内側の問題であり、彼の家族の絆の問題ではなかった。

エンドは何か。彼の内的問題の解消だったか。
もしそれがメイン軸とするなら、
便所を流すのが、ラストになるべきだった。
そのあとはいらない。

ブックエンドを考えるなら、座禅とトイレが対になるべきだ。
対にするために、トイレで座禅して浮いていいぐらいだ。

あるいは、その前の詩と対になるべきだ。
愛されることが自分ならば、
愛されて終わるべきだ。

つまり、そもそもオープニングから、
メイン軸があやふやなのである。


これは、ワンカット撮影を優先させたがための、
ギミックであることが考えられる。

話をきちんとつくるならば、
ラストと対になるオープニングにしなければならないが、
オープニングに座禅というオモシロビジュアルを思いついてしまい、
それからワンカット撮影の導線を考えてしまったため、
変更が効かなくなってしまったのだ。
(ワンカット撮影は、編集と変更が効かない)

で、何が話のメイン軸で、
何がサブ軸なのか、よくわからなくなってしまったのだ。

「内なる声を克服して、自信(それは他人からの承認?)を取り戻すこと」
ということがメイン軸だとして、
全てのパーツが、綺麗に並んでいないのだ。


これは、家族の絆を取り戻す、という軸から考えた全体だ。
死ぬラストにするなら、その逆算で違うオープニングや構成になるはずだ。


つまり、ワンカット撮影の導線は練られていても、
話がちっとも練られていないのだ。

話を示すための効果的ビジュアルではなく、
オモシロビジュアルを先に考えて、
それを無理矢理話に繋げたことが、原因なのである。
(その例のひとつがウイスキーの下り)


この話のシナリオは、シナリオとして下手くそである。
会話は上手い。
構成は下手だ。

だから、ラストで誤魔化さざるを得なくなったのだ。
そしてそれに誤魔化され、高尚だ、
と中味を吟味しない人々がありがたがる。

何のための話なのか。
それをテーマと言う。
テーマは作者の言いたいことではない。
この話全体が、結果的に暗示しているテーゼのことだ。
それが、どうも腑に落ちない。

エドワードノートンは、何のために出てきたの?
娘とやったあとはどうしたの?
彼がニューヨークタイムズで一面を飾り、
初日で主人公が一面を飾ったのはなんで?
演技や内容が評価されたから?
それは銃で鼻を打ったから?
だとしたら、あまりにも浅い話じゃね?

ワンカットの乗りかわりは、
「シカゴ」が出色の出来だと思う。
リアルの人生と彼女の中の人生が、
シームレスに切り替わるのは、
人間というのはなんと業が深いのか、
という作品のテーマを上手く表現出来ている。
(ラストだけイマイチの映画だったなあ)

この作品のワンカット撮影は、テーマを最大に現す道具になっていない。
そして、テーマが不明瞭だ。

内容ではなくアンチハリウッドで賞を取ったのだろう、
と僕が推測するゆえんだ。
posted by おおおかとしひこ at 15:20| Comment(3) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こうしてみると映画じゃなくてほかの媒体でやってろよって思ってしまいますね。(やっぱり他のメディアに失礼だから独りでコソコソやってろよってところか?)

全く「愛、アムール」やこういう作品がアカデミーの作品賞や脚本賞をとってしまうのも(「愛、アムール」は外国語映画賞ですが)
その当時の他作品との兼ね合いがあったとしてもアカデミーの権威は落ちているのかなと思いました。
Posted by kentya at 2015年04月19日 16:05
小さな賞ですが、審査員の経験をさせてもらった範囲だと、
審査員は、ベストの評論家ではありません。
様々な立場を背負った利益団体の代表でもあります。
審査員の政治的判断が出ることもよくあります。
「誰が最も歴史的に正しい批評をするのか」のコンクールではないです。

ましてや、アメリカのアカデミー賞は、批評家団体の賞ではなく、
映画業界で働く組合員の投票によって候補作が決まるしろものです。
働く人々の総意として、アンチハリウッドが候補にあがる、
という流れがある、ということを意味します。

その先の受賞も、政治的判断に近いような気がしています。
カウンターを当てることで、本道に檄を飛ばすやり方なのかと。

いずれにせよ、「その年のベストを選ぶ賞」にすぎず、
歴史的名作に比肩するかどうかは、その年のできばえ、と思っておいたほうがいいかもです。
「十年に一回の出来」とか「その去年よりいいできばえ」とか並べる、
ボジョレーヌーボーのコピペみたいなもんですね。
「アメリカンスナイパー」とかは見てないので、比較して論ずることは出来ないんですけど。
なんにせよ、「サンセット大通り」が、その年批評家に絶賛されたにも関わらず、内幕ものを嫌ったアカデミー賞審査員が一票も入れなかったことを見ると、
アカデミー賞が、真の映画賞かどうかは、疑ってかかったほうがいいと思います。
僕は、「サンセット大通り」や「ロッキー」のほうがすぐれた映画だと思いますし。
(相変わらずビリーワイルダー映画は邦題に恵まれてないですねえ。「映画人の古屋敷」ではどや)


問題は、最近のハリウッドのレベル、落ちて来てね?っておそれかなあ。2000年代ぐらいからの傾向だと思うんですけどね。
Posted by 大岡俊彦 at 2015年04月19日 17:16
やっぱりそんなものなのだと思った方が良いのですね。

確かに酷い邦題多いですね、映画に限らずほぼ全てのメディアに言えますが。
選球眼を鍛えるためと無理やり思うしかないですね。(訳した奴に対しては○ねって思いますが)
Posted by kentya at 2015年04月19日 17:47
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