バードマンにおける、
「ワンカットはリアル」という誤解。
編集してないことが臨場感があり、
没入感が強いという誤解。
ヒッチコックの「ロープ」研究の項でも書いたかもだが、
改めて、ワンカット撮影を考えてみよう。
ワンカット撮影は、ドキュメンタリーではない。
俳優に自由にやらせた即興の、見るべき価値のある瞬間を、
カメラが偶然とらえる確率は、
相当に低い。
2時間やって数分といったところだろう。
上手な人がやっても10分あるかなあ。
(昔京都の学生演劇で、二人芝居で完全即興というユニットがあった。
多分二人は付き合っていたのだろう。そこまで深い信頼がないとしんどそうな即興だった。
女のほうが美人だから見れたが、あれが不細工だったら、
1分ぐらいしか面白くなかった。
もし即興に興味があるなら、俳優のワークショップに参加してみるとよい。
それをビデオに撮ると、いかに無駄な時間があるかわかる)
それは、現実で、
面白くない時間が圧倒的に多いことの相似形だ。
本当のドキュメンタリーなら、
殆んど面白いことは起こらないものだ。
ドキュメンタリー撮影のコツは、待つ忍耐である。
逆説的に、
ワンカット撮影は、実は「綿密な振り付け」の元に撮られる。
バードマンを見ても分かるように、
背景の人々はベストのタイミングで画面を横切る。
1秒早くても遅くとも気持ちの悪いタイミングでだ。
これは、カメラがどの位置の時、どこからどこへいつ横切るかを、
カメラの動きと俳優全員の動きが、
完璧に振り付けられていないと出来ない。
ということは、台詞のタイミングは同じで、
つまり楽譜のように演じなければいけない。
すなわち、全部段取りである。
長回しがドキュメンタリーだと思っているのは、
素人だけだ。
長いテイクほど、振り付けが必要だ。
(相米慎二のワンシーンワンカット撮影は、
全てカメラがフィックスで行われた。
これは、振り付けを綿密にしてもその通りに出来ない、
未熟な俳優を演出する苦肉の策だった。
ハイ笑って、が上手く出来ない若手でも、
仲間の俳優が笑えば自然に笑いやすいからだ。
自然に撮れている?それは動物を盗み撮りしただけで、
振り付けでもなんでもない)
逆にワンカット撮影は、
ドキュメンタリーであればあるほど、
面白いことは起こらなくなる。
その手法で何も起こせなかった、
「好きだ、」「tokyo.sora」「七夜待」などを見てみるとよい。
(好きだの中で、宮崎あおいが、キスをしようと仕掛けるアドリブがあった。
相手役はこれに上手く答えられていない)
「誰も知らない」でのドキュメンタリー手法は、
演技の出来ない子役を、
演技ではなく本気でそれをやるまで、「待つ」
(つまり、晴れ間を待つように)
やり方だった。
ドキュメンタリーは、つまり、
リアリティーを構築するのではなく、
リアルが起こるまで待つやり方だ。
ウサギが木の根っこでつまづいて死んだから、
木の根っこで次につまづくまで、カメラを回すことと同じだ。
それは、台詞と展開でリアルを擬似的に作り出し、
リアルよりリアルを、リアル以上に作り出す、
映画の方法と逆だ。
映画脚本は、リアルをリアル以上に濃縮し、
別の現実を作り出す。
さて、ワンカット撮影は、
実はドキュメンタリーに見せかけた、
ハプニングを極限まで取り除いた、
究極の振り付けである。
だから、逆説的にハプニングを撮れないのだ。
(俳優が偶然脚本を越えたいい芝居をする、
偶然晴れ間が来るなど)
カットを割れば、ハプニングを編集で取りこめる。
しかしカットを割れないがゆえに、全ては段取りなのだ。
ワンシーンワンカット撮影は、
ハプニングごと撮ってしまい、
あとで編集するというスタイルだった。
ところがバードマンのワンカット撮影は、
全てにハプニングを許さない、
逆説的に全部振り付け(段取り)なのである。
さて、段取りであるワンカット撮影には、
いくつか出来ないことがある。
切り返し、アップのモンタージュ、時間経過だ。
切り返しやアップのモンタージュについては、
ロープの項でも書いたと思う。
時間経過については、バードマン評にも書いたが、
例えばウィスキー屋の段取りを、
上手く生かせなかったところだ。
カットを割るのなら、
評論家去ってマティーニをあおる、
外でウイスキー片手に泥酔、
目覚めると階段、
などのように、一気に時間を飛ばせる。
編集とは、時間を飛ばすことでもあるのである。
ワンカット撮影では、時間を飛ばせないのだ。
「ロープ」は、実に巧みな「時間を飛ばす」をやっている。
窓の外の景色を、かきわりによる表現で、
刻々と昼→夕方→夜と変えているのである。
その為に最上階の、窓の広い眺めのよい部屋を舞台にわざとしている。
バードマンのこれに当たる部分は、空に飛ばした二ヶ所だ。
しかし、時間経過がばれているという点で、
ロープよりレベルが下だと僕は思う。
ロープは、プロしか気づかないんではないかな。
(素人でもワンカット撮影、って知ってれば気づくか)
物語とは、時間を飛ばすことだ。
現実のリアルな時間から、
必要な部分だけを拾ってきて、並べることだ。
カットする、と普通に言うが、
いらないものを捨てるのではない。
話に必要な所だけを選ぶのである。
俳優の即興を撮っても、面白い所は数分だ。
野球の試合のハイライトを思いだそう。
全部見なくても、そこだけで流れがわかるというものだ。
ただのダイジェストになってはいけない。
お話を語るとは、現実の時間を、
ハイライトだけうまく選んで、
それが面白くなっているようにすることなのである。
それが、現実をドキュメンタリーで撮ったって、
物語にならないということだ。
物語はあるものの編集ではなく、
意図的に編集されたようなものを作り出すことだからだ。
ワンカット撮影だから現実的だとか言ってる奴は、
読解力のない素人だ。
ワンカット撮影だから凄いと言ってるのは、
ただの映画好きだ。
ワンカット撮影の割にはロープよりも劣ると見るのが、
脚本家の見方である。
この程度に脚本賞を上げるなんて、アカデミーも落ちたものだ。
しかし、英語の台詞の切れは凄いのかも知れない。
英語ネイティブじゃないのが辛いところ。
たしかタランティーノの時も台詞の切れが、とか言われたよね。
2015年04月26日
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