2015年04月26日

物語は、現実のとても上手いダイジェストだ

バードマンにおける、
「ワンカットはリアル」という誤解。

編集してないことが臨場感があり、
没入感が強いという誤解。

ヒッチコックの「ロープ」研究の項でも書いたかもだが、
改めて、ワンカット撮影を考えてみよう。


ワンカット撮影は、ドキュメンタリーではない。

俳優に自由にやらせた即興の、見るべき価値のある瞬間を、
カメラが偶然とらえる確率は、
相当に低い。
2時間やって数分といったところだろう。
上手な人がやっても10分あるかなあ。
(昔京都の学生演劇で、二人芝居で完全即興というユニットがあった。
多分二人は付き合っていたのだろう。そこまで深い信頼がないとしんどそうな即興だった。
女のほうが美人だから見れたが、あれが不細工だったら、
1分ぐらいしか面白くなかった。
もし即興に興味があるなら、俳優のワークショップに参加してみるとよい。
それをビデオに撮ると、いかに無駄な時間があるかわかる)


それは、現実で、
面白くない時間が圧倒的に多いことの相似形だ。
本当のドキュメンタリーなら、
殆んど面白いことは起こらないものだ。
ドキュメンタリー撮影のコツは、待つ忍耐である。


逆説的に、
ワンカット撮影は、実は「綿密な振り付け」の元に撮られる。

バードマンを見ても分かるように、
背景の人々はベストのタイミングで画面を横切る。
1秒早くても遅くとも気持ちの悪いタイミングでだ。
これは、カメラがどの位置の時、どこからどこへいつ横切るかを、
カメラの動きと俳優全員の動きが、
完璧に振り付けられていないと出来ない。

ということは、台詞のタイミングは同じで、
つまり楽譜のように演じなければいけない。
すなわち、全部段取りである。

長回しがドキュメンタリーだと思っているのは、
素人だけだ。
長いテイクほど、振り付けが必要だ。

(相米慎二のワンシーンワンカット撮影は、
全てカメラがフィックスで行われた。
これは、振り付けを綿密にしてもその通りに出来ない、
未熟な俳優を演出する苦肉の策だった。
ハイ笑って、が上手く出来ない若手でも、
仲間の俳優が笑えば自然に笑いやすいからだ。
自然に撮れている?それは動物を盗み撮りしただけで、
振り付けでもなんでもない)

逆にワンカット撮影は、
ドキュメンタリーであればあるほど、
面白いことは起こらなくなる。
その手法で何も起こせなかった、
「好きだ、」「tokyo.sora」「七夜待」などを見てみるとよい。
(好きだの中で、宮崎あおいが、キスをしようと仕掛けるアドリブがあった。
相手役はこれに上手く答えられていない)

「誰も知らない」でのドキュメンタリー手法は、
演技の出来ない子役を、
演技ではなく本気でそれをやるまで、「待つ」
(つまり、晴れ間を待つように)
やり方だった。

ドキュメンタリーは、つまり、
リアリティーを構築するのではなく、
リアルが起こるまで待つやり方だ。

ウサギが木の根っこでつまづいて死んだから、
木の根っこで次につまづくまで、カメラを回すことと同じだ。

それは、台詞と展開でリアルを擬似的に作り出し、
リアルよりリアルを、リアル以上に作り出す、
映画の方法と逆だ。
映画脚本は、リアルをリアル以上に濃縮し、
別の現実を作り出す。


さて、ワンカット撮影は、
実はドキュメンタリーに見せかけた、
ハプニングを極限まで取り除いた、
究極の振り付けである。

だから、逆説的にハプニングを撮れないのだ。
(俳優が偶然脚本を越えたいい芝居をする、
偶然晴れ間が来るなど)

カットを割れば、ハプニングを編集で取りこめる。
しかしカットを割れないがゆえに、全ては段取りなのだ。

ワンシーンワンカット撮影は、
ハプニングごと撮ってしまい、
あとで編集するというスタイルだった。

ところがバードマンのワンカット撮影は、
全てにハプニングを許さない、
逆説的に全部振り付け(段取り)なのである。



さて、段取りであるワンカット撮影には、
いくつか出来ないことがある。
切り返し、アップのモンタージュ、時間経過だ。
切り返しやアップのモンタージュについては、
ロープの項でも書いたと思う。

時間経過については、バードマン評にも書いたが、
例えばウィスキー屋の段取りを、
上手く生かせなかったところだ。
カットを割るのなら、
評論家去ってマティーニをあおる、
外でウイスキー片手に泥酔、
目覚めると階段、
などのように、一気に時間を飛ばせる。

編集とは、時間を飛ばすことでもあるのである。
ワンカット撮影では、時間を飛ばせないのだ。

「ロープ」は、実に巧みな「時間を飛ばす」をやっている。
窓の外の景色を、かきわりによる表現で、
刻々と昼→夕方→夜と変えているのである。
その為に最上階の、窓の広い眺めのよい部屋を舞台にわざとしている。

バードマンのこれに当たる部分は、空に飛ばした二ヶ所だ。
しかし、時間経過がばれているという点で、
ロープよりレベルが下だと僕は思う。
ロープは、プロしか気づかないんではないかな。
(素人でもワンカット撮影、って知ってれば気づくか)


物語とは、時間を飛ばすことだ。
現実のリアルな時間から、
必要な部分だけを拾ってきて、並べることだ。
カットする、と普通に言うが、
いらないものを捨てるのではない。

話に必要な所だけを選ぶのである。

俳優の即興を撮っても、面白い所は数分だ。
野球の試合のハイライトを思いだそう。
全部見なくても、そこだけで流れがわかるというものだ。

ただのダイジェストになってはいけない。
お話を語るとは、現実の時間を、
ハイライトだけうまく選んで、
それが面白くなっているようにすることなのである。


それが、現実をドキュメンタリーで撮ったって、
物語にならないということだ。
物語はあるものの編集ではなく、
意図的に編集されたようなものを作り出すことだからだ。


ワンカット撮影だから現実的だとか言ってる奴は、
読解力のない素人だ。
ワンカット撮影だから凄いと言ってるのは、
ただの映画好きだ。
ワンカット撮影の割にはロープよりも劣ると見るのが、
脚本家の見方である。



この程度に脚本賞を上げるなんて、アカデミーも落ちたものだ。
しかし、英語の台詞の切れは凄いのかも知れない。
英語ネイティブじゃないのが辛いところ。
たしかタランティーノの時も台詞の切れが、とか言われたよね。
posted by おおおかとしひこ at 00:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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