2015年04月22日

書く苦しみ

書くのが楽しいから書いているのは、アマチュアだ。

楽しいことを書くのに、苦しいという感覚を経験して、
それが1ミリも感じられず本気で楽しんで書くのがプロだ。

それは、嫌々嘘の笑顔を作ることの苦しみではない。
(営業スマイルが僕は苦手だ)
作劇は、我慢自慢の大会ではない。

それは、本気で楽しむ事の苦しみである。



箸が転がっても笑える年頃なら、
あなたは「箸が転がる。」を100回書くといい。
とても楽しく書けるだろう。
書くって楽しい!と心から言える。

しかしその年頃を過ぎると、
面白いってどういうことかを考えるようになる。
箸が転がる程度では面白くなくなるからだ。


それは年を取り、色々な面白いものを見たからだ。
凄く面白いものを見たからだ。

自分の作るものが、それを越えなければいけないことに気づくからだ。

その判断基準で、あなたは自分の面白さを量るようになる。
だから、自分の面白さに厳しくなる。

これはとてもいい傾向だ。
その判断基準を越えるまで、
あなたは面白いものを考え続けなければならないからだ。

それが苦しいのだ。

その苦しみを生みの苦しみと言ったりするけど、
僕は、自分のOKと闘う苦しみだと思う。


陶芸家が納得いくまで皿を割るようなもの。
昔の小説家が原稿をくしゃくしゃやるようなもの。

あなたのOKの基準が高ければ高いほど、
あなたは苦しむ。
そのOKを越えるまで苦しむ。

つまりプロとは、
面白さの基準が高い人で、
なおかつそれを越えられるものを作れる人のことだ。



基準が高いほど苦しい。
ある一点で越えると、アマチュア時代の楽しさが甦ってくる。
面白くてしょうがない。
しょんべんちびる。
風魔の脚本、何話でもいい、を書いている楽しさを想像して見たまえ。

しかし、脚本は点でなく線である。
どこかで基準点を越えても、
線として越えないと、OKの基準を越えないはずだ。

だからある点で突破したとき、
線として越えるものを作るときが、
一番苦しい。

ある時点では突破してるのだから、
全体に突破するものにしたい。
その全体に仕立てあげるまでが、
一番苦しい。

プロットが完成して、「話ができた!」という瞬間が、
喜びと苦しさのピークかな。
でも第一稿を書いてるときも、
苦しいし楽しい。
一語一語が自分のOKとの闘いだからね。
書き終えたあとは、
上手く行っただろうかということばかり気になる。

リライト時に、最初に一気読みしたときの、
あの落胆をいつも思い出す。
王様は裸なのではないかといつもびくびくする。

どうしてこんなに苦しくてびくびくすることをするのだろう。

自分のOKを越えるためだ。


もっと面白いものを。
もっと泣けるものを。
もっと笑えるものを。
もっとワクワクするものを。
もっと感心するものを。
もっと人生を変えるものを。
もっとしびれるものを。

沢山面白い話が世の中に転がってる、
と思うのは、まだOKの基準が低い。
最近面白い話がない、と思ってからが、 ようやく苦しみのはじまりだ。
あなたはそのOKを越える、面白い話を作らなけらばならないからだ。



ずっと苦しい。
本気で楽しいものを作り上げることは苦しい。
しかしそれが出来上がりつつある瞬間ほど、
しょんべんちびるほど楽しいものは、
なかなかない。
だって今までで最高の作品が出来上がるんだぜ。

基準が厳しければ、
今出来上がりつつある作品は、
世界最高の作品なんだぜ。

そこまで苦しもう。


世界最高の楽しい、最高級の作品を作ろう。

それはどんな形?
グレードの高い生活をしてるセレブの話ではなく、
多分庶民の話だ。
誰にも理解できない難しい文学や理論ではなく、
誰にも分かる感情で、
しかもまだ誰も手をつけていない新しい領域だ。
誰にもついていけないものではなく、
全世界が熱狂するストーリーラインやテーマだ。

あるいは、子供には見せられなくても、
それ以外が夢中になって影響を受ける作品だ。

一部でなく全員が夢中になる、新しくて面白いもの。
これを考えつくのが、苦しい。




初心者のうちは、OKの基準が低い。
自分は初心者だという自覚がある。
書くって楽しい、と本気で思えるものを書くといい。

何本か書いてるうちに、
少なくとも以前書いたものより詰まらないものを書くのが、
自分的に納得いかない日がやってくる。

その時に思い出してほしい。
書くことは、OKを越える苦しみなのだと。


中級者諸君は、その苦しみを知りながら、
尚上に行きたい人だろう。

他の苦しみを抱える人が、どうやって突破したか、
どうやって突破口を見つけたかを、研究するといいかも知れない。
レベルの低いものを見て安心してはいけない。
志は常に高く。

上級者は、オリジナリティーとの闘いをしているかも知れない。
僕は、オリジナリティーなんてあとからついてくると考える。
(プロデューサーは面接であなたの特徴を知りたがる。
そういうときは作風ではなく、
今このモチーフまたはテーマを書いている、とだけ言えばいい。
それを作風と思わせれば御の字だ)
とにかく何でもいいからOKを越えろ。
道はない。あとから見たら道になってるだけだ。
posted by おおおかとしひこ at 10:27| Comment(4) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
大岡監督こんにちは。添削お疲れ様です。

今小説を書いていて、まさにオリジナリティーの壁にぶち当たっているときにこの記事を読み返して、とても励まされました。
書くのはやっぱり苦しくて、出来上がった最後の瞬間だけが最高に嬉しいです。その一瞬のために膨大な時間を費やしているのかと思うと、自分にちょっとあきれてしまいますが。
書くことの苦しさは自分のOKを超えるための苦しさだと思うと、乗り越えられる気がします。たとえ地の文一文でも妥協したくないですから。

一年ほど前の記事で恐縮ですが、「表現することは、こわい」という記事も大好きです。
物書きはそれでも書いてしまうんですよね。私もそれだけの覚悟を持ちたいと思いました。

毎日の更新、大変な労力かと思いますが、これからも監督の脚本論を日々創作の糧にさせていただきます。応援しております。
Posted by 豊田 at 2015年05月03日 17:35
豊田様コメントありがとうございます。

この記事、多分今書いてる第八集が苦しくて、自分を励ます為に書いたような気がします。(笑)
そこらへんにある無難なものはすぐ出来ても、それを上回ることが難しくて。
(具体的には、クラスの女子たちの暴走ぶりを書いてます。やっぱ女子同士を書くのは苦手なので)

このブログは、普段思うこと、かつて思ったことを整理する場でもあるので、通常記事を書くのは結構楽しいんですよ。
ストーリーの秘密を解き明かしてく感じで。

しかし、添削はなかなかハードですね。
もし創作仲間がいたら、仲間のを添削するというのは、とても練習になります。(勝手にやると怒られるよ!)
それが出来るなら、自作もよく出来るはずだから。

つまり、添削といいながら、今やってるのは、
プロのリライト現場を解説つきで見せているようなものです。最後に書くかも知れませんが、原作の映画化の失敗の理由は、リライト力のなさだと考えます。

これからも頑張ります。
面白い小説を書き続けてください。書き続けると、OKの基準が上がって、物凄いのになるはずだから。
Posted by 大岡俊彦 at 2015年05月03日 18:07
この記事、まさに今の自分だなと思ってみています。
自分は劇作家をしています。
何度か上演していますが、以前は簡単に書き始めていた自分が、最近では書き始めることが出来ないでいる。
もっとも面白い、もっと泣ける…
もっともっと、と高いハードルを課しているためでしょうけど、そこを突破しようと苦戦しています。
洞窟の中からは抜け出たような気はするけど、まだ深い森の中を抜け出れてないってとこですね。
Posted by 小川 at 2015年05月07日 10:30
小川様コメントありがとうございます。

こういう気持ちを共有できるのも、ネット時代のいいところかも知れませんねえ。
チャップリンの、代表作はネクストワンだ、という言葉が胸にしみます。
劇作は詳しくはないのですが、自分、観客、時代性、全てを半歩先んじて上回ることの難しさはわかります。歴史的見地の要素がどれくらい絡むのか分かりませんが。
(映画は過去にあるかどうかがすぐ参照出来ちゃう)

書く人間にしか分からんのでしょうなあ。
一チームに何故かそれは一人なんですよね。
自分の役割、と思って、色々工夫してみてください。
(頑張ったって新しいのは生まれないので、
工夫してみてください、ということにします)
Posted by 大岡俊彦 at 2015年05月07日 11:03
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