書くのが楽しいから書いているのは、アマチュアだ。
楽しいことを書くのに、苦しいという感覚を経験して、
それが1ミリも感じられず本気で楽しんで書くのがプロだ。
それは、嫌々嘘の笑顔を作ることの苦しみではない。
(営業スマイルが僕は苦手だ)
作劇は、我慢自慢の大会ではない。
それは、本気で楽しむ事の苦しみである。
箸が転がっても笑える年頃なら、
あなたは「箸が転がる。」を100回書くといい。
とても楽しく書けるだろう。
書くって楽しい!と心から言える。
しかしその年頃を過ぎると、
面白いってどういうことかを考えるようになる。
箸が転がる程度では面白くなくなるからだ。
それは年を取り、色々な面白いものを見たからだ。
凄く面白いものを見たからだ。
自分の作るものが、それを越えなければいけないことに気づくからだ。
その判断基準で、あなたは自分の面白さを量るようになる。
だから、自分の面白さに厳しくなる。
これはとてもいい傾向だ。
その判断基準を越えるまで、
あなたは面白いものを考え続けなければならないからだ。
それが苦しいのだ。
その苦しみを生みの苦しみと言ったりするけど、
僕は、自分のOKと闘う苦しみだと思う。
陶芸家が納得いくまで皿を割るようなもの。
昔の小説家が原稿をくしゃくしゃやるようなもの。
あなたのOKの基準が高ければ高いほど、
あなたは苦しむ。
そのOKを越えるまで苦しむ。
つまりプロとは、
面白さの基準が高い人で、
なおかつそれを越えられるものを作れる人のことだ。
基準が高いほど苦しい。
ある一点で越えると、アマチュア時代の楽しさが甦ってくる。
面白くてしょうがない。
しょんべんちびる。
風魔の脚本、何話でもいい、を書いている楽しさを想像して見たまえ。
しかし、脚本は点でなく線である。
どこかで基準点を越えても、
線として越えないと、OKの基準を越えないはずだ。
だからある点で突破したとき、
線として越えるものを作るときが、
一番苦しい。
ある時点では突破してるのだから、
全体に突破するものにしたい。
その全体に仕立てあげるまでが、
一番苦しい。
プロットが完成して、「話ができた!」という瞬間が、
喜びと苦しさのピークかな。
でも第一稿を書いてるときも、
苦しいし楽しい。
一語一語が自分のOKとの闘いだからね。
書き終えたあとは、
上手く行っただろうかということばかり気になる。
リライト時に、最初に一気読みしたときの、
あの落胆をいつも思い出す。
王様は裸なのではないかといつもびくびくする。
どうしてこんなに苦しくてびくびくすることをするのだろう。
自分のOKを越えるためだ。
もっと面白いものを。
もっと泣けるものを。
もっと笑えるものを。
もっとワクワクするものを。
もっと感心するものを。
もっと人生を変えるものを。
もっとしびれるものを。
沢山面白い話が世の中に転がってる、
と思うのは、まだOKの基準が低い。
最近面白い話がない、と思ってからが、 ようやく苦しみのはじまりだ。
あなたはそのOKを越える、面白い話を作らなけらばならないからだ。
ずっと苦しい。
本気で楽しいものを作り上げることは苦しい。
しかしそれが出来上がりつつある瞬間ほど、
しょんべんちびるほど楽しいものは、
なかなかない。
だって今までで最高の作品が出来上がるんだぜ。
基準が厳しければ、
今出来上がりつつある作品は、
世界最高の作品なんだぜ。
そこまで苦しもう。
世界最高の楽しい、最高級の作品を作ろう。
それはどんな形?
グレードの高い生活をしてるセレブの話ではなく、
多分庶民の話だ。
誰にも理解できない難しい文学や理論ではなく、
誰にも分かる感情で、
しかもまだ誰も手をつけていない新しい領域だ。
誰にもついていけないものではなく、
全世界が熱狂するストーリーラインやテーマだ。
あるいは、子供には見せられなくても、
それ以外が夢中になって影響を受ける作品だ。
一部でなく全員が夢中になる、新しくて面白いもの。
これを考えつくのが、苦しい。
初心者のうちは、OKの基準が低い。
自分は初心者だという自覚がある。
書くって楽しい、と本気で思えるものを書くといい。
何本か書いてるうちに、
少なくとも以前書いたものより詰まらないものを書くのが、
自分的に納得いかない日がやってくる。
その時に思い出してほしい。
書くことは、OKを越える苦しみなのだと。
中級者諸君は、その苦しみを知りながら、
尚上に行きたい人だろう。
他の苦しみを抱える人が、どうやって突破したか、
どうやって突破口を見つけたかを、研究するといいかも知れない。
レベルの低いものを見て安心してはいけない。
志は常に高く。
上級者は、オリジナリティーとの闘いをしているかも知れない。
僕は、オリジナリティーなんてあとからついてくると考える。
(プロデューサーは面接であなたの特徴を知りたがる。
そういうときは作風ではなく、
今このモチーフまたはテーマを書いている、とだけ言えばいい。
それを作風と思わせれば御の字だ)
とにかく何でもいいからOKを越えろ。
道はない。あとから見たら道になってるだけだ。
2015年04月22日
この記事へのトラックバック
今小説を書いていて、まさにオリジナリティーの壁にぶち当たっているときにこの記事を読み返して、とても励まされました。
書くのはやっぱり苦しくて、出来上がった最後の瞬間だけが最高に嬉しいです。その一瞬のために膨大な時間を費やしているのかと思うと、自分にちょっとあきれてしまいますが。
書くことの苦しさは自分のOKを超えるための苦しさだと思うと、乗り越えられる気がします。たとえ地の文一文でも妥協したくないですから。
一年ほど前の記事で恐縮ですが、「表現することは、こわい」という記事も大好きです。
物書きはそれでも書いてしまうんですよね。私もそれだけの覚悟を持ちたいと思いました。
毎日の更新、大変な労力かと思いますが、これからも監督の脚本論を日々創作の糧にさせていただきます。応援しております。
この記事、多分今書いてる第八集が苦しくて、自分を励ます為に書いたような気がします。(笑)
そこらへんにある無難なものはすぐ出来ても、それを上回ることが難しくて。
(具体的には、クラスの女子たちの暴走ぶりを書いてます。やっぱ女子同士を書くのは苦手なので)
このブログは、普段思うこと、かつて思ったことを整理する場でもあるので、通常記事を書くのは結構楽しいんですよ。
ストーリーの秘密を解き明かしてく感じで。
しかし、添削はなかなかハードですね。
もし創作仲間がいたら、仲間のを添削するというのは、とても練習になります。(勝手にやると怒られるよ!)
それが出来るなら、自作もよく出来るはずだから。
つまり、添削といいながら、今やってるのは、
プロのリライト現場を解説つきで見せているようなものです。最後に書くかも知れませんが、原作の映画化の失敗の理由は、リライト力のなさだと考えます。
これからも頑張ります。
面白い小説を書き続けてください。書き続けると、OKの基準が上がって、物凄いのになるはずだから。
自分は劇作家をしています。
何度か上演していますが、以前は簡単に書き始めていた自分が、最近では書き始めることが出来ないでいる。
もっとも面白い、もっと泣ける…
もっともっと、と高いハードルを課しているためでしょうけど、そこを突破しようと苦戦しています。
洞窟の中からは抜け出たような気はするけど、まだ深い森の中を抜け出れてないってとこですね。
こういう気持ちを共有できるのも、ネット時代のいいところかも知れませんねえ。
チャップリンの、代表作はネクストワンだ、という言葉が胸にしみます。
劇作は詳しくはないのですが、自分、観客、時代性、全てを半歩先んじて上回ることの難しさはわかります。歴史的見地の要素がどれくらい絡むのか分かりませんが。
(映画は過去にあるかどうかがすぐ参照出来ちゃう)
書く人間にしか分からんのでしょうなあ。
一チームに何故かそれは一人なんですよね。
自分の役割、と思って、色々工夫してみてください。
(頑張ったって新しいのは生まれないので、
工夫してみてください、ということにします)