2015年04月24日

ビート3:ビートとストーリーライン

ビートは、ひとつのストーリーラインのことであり、
全体のビートのことでもある。


ひとつのストーリーラインの中にビートがあることは、
簡単に想像がつくだろう。

あることをするのに、ビートの足し引きをすることについては、
既にいくつか例で示した。

これが複数のストーリーラインになったとしても、
それぞれにビートがあることも想像がつくだろう。
それぞれの、メインテーマへの寄与の具合は、
ビートの厚みで調節出来ることもわかるはずだ。


文章量が多いからといって、
ビートがあるとは限らない。
ビートが多いからといって、
面白いとは限らない。
基準になるのは、客観的指標ではなく、
「手応え」や「感触」のような感覚である。


さて、複数のストーリーラインの複数のビートを、
うまく編成するのが、脚本を書くことだと言えるだろう。

だが、各ストーリーラインのビートに目端を効かせただけでは、
まだ第一段階に過ぎない。

全体でどういうビートを刻んでいるかが、
一番大事だ。
全体で、というのは、
「ひとつの話としてこの全体を見たとき」という意味だ。

例えば、第一ターニングポイントと第二ターニングポイントは、
代表的な、全体のビートのことである。
逆に三幕構成理論は、この二つのビートのことしか言及しない理論だとも言える。

映画の中にいくつビートがあるかは、
その話によるとしか言えない。
単位時間あたりに多ければテンポが早い話だし、
逆ならゆったりの話だろう。

ブレイク・シュナイダー・ビート・シートは、
そのうち13のビートについて、役割を決めた理論だ。
50ビートでも100ビートでも、
そのうち13ビートを特徴的にしておくと、
全体のビートになる、という理論である。



どのストーリーラインのビートでも、
全体のビートになるだろうか。
多分否だと思う。
メインストーリーラインのビートで、
全体のビートを兼ねたほうがいいと思う。

具体的なのはパッと思いつかないので、
自作「いけちゃんとぼく」から持ってくる。
隣町との抗争の結果、
ヨシオの野球で勝負をしよう、の一言が、
いけちゃんが見えなくなるというビートの引き金になる。
すなわちここが第二ターニングポイントだ。
これをメインプロット外で起こすと、
全体が進行してる感じには、恐らくならないと思う。
隣町との野球対決がクライマックスになり得るのは、
絵的にビッグイベントだからだけでなく、
いけちゃんが見えなくなる、即ち大人になる、
即ち、友達やいじめっ子と協力して敵を倒す覚悟をしたときだからだ。

あるいは、
てんぐ探偵15話「サッカーのにいちゃん」のラスト、
「妖怪退治をするサッカー選手」に気づくビートは、
その話の落ちになるだけでなく、
全体の第一ターニングポイント、
ノーブレスオブリージュの責任を負うことと、
妖怪退治を引き受ける覚悟をすること、
などの意味合いがあり、
重要なビートになっている。



ビートを骨格にストーリーを設計することは、
全体が見えていること、部分が見えていることの、
両方が必要だ。
posted by おおおかとしひこ at 19:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック