ビートは、ひとつのストーリーラインのことであり、
全体のビートのことでもある。
ひとつのストーリーラインの中にビートがあることは、
簡単に想像がつくだろう。
あることをするのに、ビートの足し引きをすることについては、
既にいくつか例で示した。
これが複数のストーリーラインになったとしても、
それぞれにビートがあることも想像がつくだろう。
それぞれの、メインテーマへの寄与の具合は、
ビートの厚みで調節出来ることもわかるはずだ。
文章量が多いからといって、
ビートがあるとは限らない。
ビートが多いからといって、
面白いとは限らない。
基準になるのは、客観的指標ではなく、
「手応え」や「感触」のような感覚である。
さて、複数のストーリーラインの複数のビートを、
うまく編成するのが、脚本を書くことだと言えるだろう。
だが、各ストーリーラインのビートに目端を効かせただけでは、
まだ第一段階に過ぎない。
全体でどういうビートを刻んでいるかが、
一番大事だ。
全体で、というのは、
「ひとつの話としてこの全体を見たとき」という意味だ。
例えば、第一ターニングポイントと第二ターニングポイントは、
代表的な、全体のビートのことである。
逆に三幕構成理論は、この二つのビートのことしか言及しない理論だとも言える。
映画の中にいくつビートがあるかは、
その話によるとしか言えない。
単位時間あたりに多ければテンポが早い話だし、
逆ならゆったりの話だろう。
ブレイク・シュナイダー・ビート・シートは、
そのうち13のビートについて、役割を決めた理論だ。
50ビートでも100ビートでも、
そのうち13ビートを特徴的にしておくと、
全体のビートになる、という理論である。
どのストーリーラインのビートでも、
全体のビートになるだろうか。
多分否だと思う。
メインストーリーラインのビートで、
全体のビートを兼ねたほうがいいと思う。
具体的なのはパッと思いつかないので、
自作「いけちゃんとぼく」から持ってくる。
隣町との抗争の結果、
ヨシオの野球で勝負をしよう、の一言が、
いけちゃんが見えなくなるというビートの引き金になる。
すなわちここが第二ターニングポイントだ。
これをメインプロット外で起こすと、
全体が進行してる感じには、恐らくならないと思う。
隣町との野球対決がクライマックスになり得るのは、
絵的にビッグイベントだからだけでなく、
いけちゃんが見えなくなる、即ち大人になる、
即ち、友達やいじめっ子と協力して敵を倒す覚悟をしたときだからだ。
あるいは、
てんぐ探偵15話「サッカーのにいちゃん」のラスト、
「妖怪退治をするサッカー選手」に気づくビートは、
その話の落ちになるだけでなく、
全体の第一ターニングポイント、
ノーブレスオブリージュの責任を負うことと、
妖怪退治を引き受ける覚悟をすること、
などの意味合いがあり、
重要なビートになっている。
ビートを骨格にストーリーを設計することは、
全体が見えていること、部分が見えていることの、
両方が必要だ。
2015年04月24日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック