理想は、面白い脚本を書き終え、
それが素晴らしいテーマであることを確認し、
新しく、面白いストーリーであり、
魅力的なガワを備えていることも確認してから、
それを劇的に売り込める作戦を、
作品とは別に練り込むことだ。
良いCMは、本体と別の良さを持つ。
本体のCMでありながら、本体と別の良さを主張して、
はじめてCMの中で目立ち、本体に手を伸ばさせる効果がある。
従って、本体があっての、売り込み戦略としての企画書を、
別に考えるのが理想だ。
本体に対して、数種類売り込み方があって、
使い分けてもいいぐらいだ。
だが、現実にはそうではない。
脚本を書く前に企画書があり、
稟議を通ってから、
はじめて書くことになるパターンが殆どだ。
これで、「稟議を通るための企画書を書く」という本末転倒が起こる。
画期的なものを作るための許可証を得るために、
画期的で売れることを、先に証明しなければならないジレンマだ。
今日本が抱えている問題だと思う。
それは売れるのか?という問いに、企画書は晒される。
そんなの作ってみないと分かんないじゃん、が本音だ。
出来上がりが全てなのに。
なのに、これは確実にヒットするのですよ、
と出来る前に言わなければならず、
複数の企画書がある場合、
「最も売れると、稟議する側が思う」企画書か通る。
従って、稟議を通すことがゴールになり、
本当に画期的なものを作ることがゴールではなくなる。
つまり、企画書で稟議を通すシステムは、
「稟議で認められる価値観に一番沿ったもの」を一番にし、
「誰もが思いつかなかった画期的なもの」を一番にしない。
そして、
「稟議に反対されそうな画期的なものを作るのは悪であり、
稟議に通る無難なものの中の競争」を産み出すことになる。
(僕はそのことを、ブナンザグレートと呼ぶ)
それは、
例えば、原作つきの横行や、
キャスティング先行で内容を吟味してないものの横行に結び付く。
フィニッシュより、稟議を通ることが勝負だからだ。
だから、○○を抑えました、がキラーコンテンツ扱いされる。
中身の良さが本当は勝負にも関わらず、だ。
ショウビジネスだけでなく、
例えばメーカーでもそれは起こっているだろう。
画期的なものを作りたければ、
大手の稟議ビジネスではなく、
ベンチャーの投資を待たなければならない時代になったのかも知れない。
トイプロブレムで結果を出し、
大きなビジネスモデルに投資して下さいと。
ということで、
企画書なんていくら書いても無駄だ。
先に作品を書いた方がいい。
どうせ脚本を書く際には、
ビジネス上様々な制約があるから、
直しが前提になる。
そこで、先に小説を書いて、
それを映画化する、というスタンスに立ったほうがいいかも知れない。
小説を書くことで、
もう売り込むべき画期的な中身は出来ている筈だからだ。
それから企画書を書き、
どこかのビジネス団体と噛み合うまでチャンスを待ち、
それに合わせて企画書を書き直したほうが早いかもだ。
どうせその時の時流で、脚本アレンジの方向は変わる。
本来なら、
ざっくりした企画書を書く→脚本へ開発する→制作稟議
→制作→ヒットすれば回収、損しても何回かやって打率がそこそこあれば成長、
というループが良いのだが、
今、1ループでヒットしないとダメだ、
という流れが、
本来の「打率で読むこと」を機能させていない。
打率100%を企画書稟議は求めるからだ。
映画の打率はかつて10%と言われた。
CMの打率はかつて30%と言われた。
それを恐ろしく100%に近づけるから、無理があるような気がしている。
クリエイティブには失敗がある前提で、
我々は企画書を書く。
しかし稟議する側は、これが100%成功する根拠を要求する。
そんなの作ってみなきゃわからんよ。ぶっちゃけ。
ということで、
もう先に作ってしまおう。
脚本形式でもよい。
小説形式なら、広い読者層がいる。
(小説として受けることと、映画脚本として良いことは別)
企画書を先に書くのはナンセンスだ。
通る企画書なんて、クリエイティブではない。
現に今、イミテイティブな作品ばかりではないか。
先に書け。まず画期的に面白い話を書け。
それから企画書を別にしたためろ。
どう売り込むかというサラリーマンと、面白いことを考える脳は別だ。
あなたは作家に徹し、売り込むビジネスをするスポークスマンを見つけてもよい。
そうでない限り、
もう日本で、時代を変える画期的に面白い作品は生まれないと思う。
ということで、
先に書いてるつもりなのだが、
さてどうなるやら。
2015年04月24日
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