「何故主人公以外の人物が必要なのか」というキーワードで辿りついた人がいた。
興味深い質問なので、考えてみる。
この質問をした人は、多分現代人の孤独な環境に馴染んだ人だと思う。
ネットでは繋がってるけど、リアルでは人間関係が希薄で、
飲み会や付き合いの会には行かないし、呼ばれない人だろう。
人と人の付き合いなんてめんどくさいと思い、
一人の時間を楽しみながら、うっすらと孤独を感じている人だろう。
こういう人が話を作ると、
とても詰まらない話が出来上がる。
主人公が一人しか出ない物語だ。
他の人物も出ることは出るが、ご都合主義的に、
主人公の願いを叶える役割としてしか出てこない。
つまり、人と人のぶつかり合いや揉め事はなく、
ただ解決する様が淡々と描かれる。
(あるいは問題は解決すらしない)
これは、たいてい、とても詰まらない話である。
逆に、物語の面白さとは、どこにあるのか。
人と人の、面倒くさい、ケンカや付き合いや、揉め事の中にあるのだ。
これを専門用語でコンフリクトという。
僕らが子供の頃にようやく子供部屋が出来たから、
それ以前の世代の人は、自分のプライバシーがなかった。
きっと、揉め事だらけで、他人と暮らすことが、とてもめんどくさいと感じていたはずだ。
何故なら毎日ケンカは起こるからだ。
子供部屋を持ち、プライバシーを持ち、
一人暮らしで育った人たちは、
他人との暮らしを嫌がる。
同棲の解消、結婚即離婚なども、他人と暮らすのが面倒くさいからである。
しかし、その避けている、
「人と暮らすときに起こる、人々の軋轢とその解消」こそが、
話の正体なのだ。
飲み会を断って一人で帰るのは、物語ではない。
飲み会に強引に連れて行かれ、そこで本音をぶつけ合って意外な本心を知り、
仲直りをするとか、殴り合いのケンカをして二度と目を合わせない関係になるとか、
そのような、いわば昭和的な人間関係の中に、
物語(コンフリクト)というものがあるのだ。
最近の脚本がつまらないのは、
ひょっとすると、他人との濃い人間関係を避け、
直接会うのを避け、
なるべく一人暮らしの部屋にこもりたい、
現代病のせいかも知れない。
濃い人間関係をクリアするようなパワフルさがないと、
濃い物語を創作することは出来ないだろう。
(大人になった現在、希薄な人間関係の中で生きていて、
子供時代の濃い人間関係だけを思い出して書いている人も、いるかも知れない)
さて。一人だけの物語が存在するか?
存在しない。
存在しても、決して面白くない。
ピクサーのウォーリーを思い出そう。
面白くなるのは、相手のロボットが出てきてからだ。
物語は、一人ではできない。
異質な、別人と、ケンカし、嫌なところを見せ合い、
角を突き合わせ、ののしりあい、否定しあい、
その先にいい所を見つけたり、認め合うような、
濃い人間関係の中だけにある。
最近の若い奴は、そういうめんどくさい人間関係を嫌がって、逃げていく。
そういう人間は、楽かも知れないが、
多分、面白い話を書くことは出来ないだろう。
何故主人公以外の人物が必要なのか。
世界には必要ないかも知れない。
物語には必要だ。
しかも、主人公の言うことを聞かない、その人の都合だけで動く、
嫌なやつが。
その複数の人間関係の中のごたごたが、物語だからだ。
2015年04月24日
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