2015年04月24日

登場人物一人で、話になるだろうか?

「何故主人公以外の人物が必要なのか」というキーワードで辿りついた人がいた。
興味深い質問なので、考えてみる。


この質問をした人は、多分現代人の孤独な環境に馴染んだ人だと思う。
ネットでは繋がってるけど、リアルでは人間関係が希薄で、
飲み会や付き合いの会には行かないし、呼ばれない人だろう。
人と人の付き合いなんてめんどくさいと思い、
一人の時間を楽しみながら、うっすらと孤独を感じている人だろう。

こういう人が話を作ると、
とても詰まらない話が出来上がる。
主人公が一人しか出ない物語だ。

他の人物も出ることは出るが、ご都合主義的に、
主人公の願いを叶える役割としてしか出てこない。

つまり、人と人のぶつかり合いや揉め事はなく、
ただ解決する様が淡々と描かれる。
(あるいは問題は解決すらしない)

これは、たいてい、とても詰まらない話である。


逆に、物語の面白さとは、どこにあるのか。
人と人の、面倒くさい、ケンカや付き合いや、揉め事の中にあるのだ。

これを専門用語でコンフリクトという。


僕らが子供の頃にようやく子供部屋が出来たから、
それ以前の世代の人は、自分のプライバシーがなかった。
きっと、揉め事だらけで、他人と暮らすことが、とてもめんどくさいと感じていたはずだ。
何故なら毎日ケンカは起こるからだ。

子供部屋を持ち、プライバシーを持ち、
一人暮らしで育った人たちは、
他人との暮らしを嫌がる。
同棲の解消、結婚即離婚なども、他人と暮らすのが面倒くさいからである。


しかし、その避けている、
「人と暮らすときに起こる、人々の軋轢とその解消」こそが、
話の正体なのだ。

飲み会を断って一人で帰るのは、物語ではない。
飲み会に強引に連れて行かれ、そこで本音をぶつけ合って意外な本心を知り、
仲直りをするとか、殴り合いのケンカをして二度と目を合わせない関係になるとか、
そのような、いわば昭和的な人間関係の中に、
物語(コンフリクト)というものがあるのだ。


最近の脚本がつまらないのは、
ひょっとすると、他人との濃い人間関係を避け、
直接会うのを避け、
なるべく一人暮らしの部屋にこもりたい、
現代病のせいかも知れない。

濃い人間関係をクリアするようなパワフルさがないと、
濃い物語を創作することは出来ないだろう。
(大人になった現在、希薄な人間関係の中で生きていて、
子供時代の濃い人間関係だけを思い出して書いている人も、いるかも知れない)



さて。一人だけの物語が存在するか?
存在しない。

存在しても、決して面白くない。
ピクサーのウォーリーを思い出そう。
面白くなるのは、相手のロボットが出てきてからだ。


物語は、一人ではできない。
異質な、別人と、ケンカし、嫌なところを見せ合い、
角を突き合わせ、ののしりあい、否定しあい、
その先にいい所を見つけたり、認め合うような、
濃い人間関係の中だけにある。


最近の若い奴は、そういうめんどくさい人間関係を嫌がって、逃げていく。
そういう人間は、楽かも知れないが、
多分、面白い話を書くことは出来ないだろう。


何故主人公以外の人物が必要なのか。
世界には必要ないかも知れない。
物語には必要だ。
しかも、主人公の言うことを聞かない、その人の都合だけで動く、
嫌なやつが。
その複数の人間関係の中のごたごたが、物語だからだ。
posted by おおおかとしひこ at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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