という検索ワードで来た人がいたので、
タイムリーにこの話題をしてみる。
主人公が傍観者になってしまうのは、
最もよくある初心者の間違いだ。
もっと言うと、これは一種の精神的病の兆候でもある。
そもそも、リア充は物語など書かない。
書く人は、現実に対してなんらかの無力感を抱えているものだ。
現実に対して、思ったことが実現できてないから、
物語を書くことに集中できるのである。
ところが、物語のなかでもこれをやってしまう。
現実を変えて、行動して、充実した経験がないからこそ、
主人公も、
現実を変えて、行動して、充実した経験をさせられないのだ。
結果は、主人公が傍観者になってしまうのだ。
これは、物語を書くときの、初歩的な間違いを犯している。
それは、「自分を主人公にしてはいけない」
というところである。
主人公=自分にしてしまうと、
あなたが人生の傍観者であるのと同様に、
主人公が物語の傍観者になってしまうのだ。
物語とは、主人公を媒介にした、
冒険世界への没入だ。
人生の傍観者になって詰まらないなあと思う人が、
傍観している、
「他の人々が生き生きと活躍し、行動して、充実した経験を積んでいる、
その人になってみたい」
という思いを叶えるものである。
なのに、その物語の中で傍観者になってもしょうがないのだ。
普段現実で傍観してて、自分には無理だけど、
行動して活躍して充実した、その人になってみたい、
という願望を叶えるのが物語だ、と言ってもよい。
現実で活躍して充実していて、
それに飽き飽きで、
たまには俺も傍観者になってみたいよ!
という人だけが、傍観者の物語を好んで選ぶだろう。
そして、そんな人はそんなものを見ている暇はない。
自分のことと他人のことの区別が上手くつかないと、
こういう事をやりがちである。
あなたは、他の人の書いた、傍観者主人公を、
他のどんな作品よりも優れた、
最も面白い物語だと思っただろうか?
否のはずだ。
なのに、自分の書いた物語が、
主人公が傍観者だから、面白いと言えるのだろうか?
否のはずだ。
自分と他人の、典型的なダブルスタンダードだ。
それは、自分と他人の区別のついていない、
一種の精神的病だと僕は思う。
親しい友人が、傍観者主人公の物語を書いてきたら、
これは詰まらない、主人公はもっと行動するべき、
と指摘出来る癖に、
自分の書いた物語では、主人公は傍観者であることが気持ちいい、
などと平気で言えるのである。
その差は、作品の差ではなく、
自分と他人の差に過ぎない、と早く自覚するべきである。
これを治療する方法はふたつある。
第一は対症療法で、
自分がリア充になることだ。
自分自身が、
現実で活躍して、行動的で充実した経験を積めばいい。
ルポ漫画やドキュメンタリーなどは、
この方法で作られる。
たとえば西原理恵子の「できるかな」は、
編集者の無茶ぶりのお題に対して、体当たりで挑戦して、
その面白おかしい顛末を描いて漫画にしている。
あるいは、壮絶な体験をした人が出す手記や暴露本は、
この手のタイプの価値がある。
80年代から90年代にはポピュラーだったルポは、
バブルの予算があったからこそ出来たものも多い。
雑誌やテレビの企画で海外で無茶なことをやり、
みたいなことは、今は作家ではなくタレントの仕事になっている。
(タレントじゃないと数字の保証がないから)
それは、特殊体験させるだけの予算がないからだ。
あなたは生涯の何年かをかけて特殊に充実した経験を積み、
それを作品にしてもよい。
(宗教のセミナー潜入体験を映画にしたのが、
「神風タクシー」である)
それは、ありていに言えば、自分の切り売りだ。
そんな面白体験なら、たとえ傍観者でも面白い物語になるだろう。
「芸の肥やし」とは、そのような無茶な経験をすることでもある。
第二の方法は、より根本的だ。
「自分を主人公にしない」ことだ。
例えば、傍観者主人公を切ってみよう。
自分をその世界から取り除いてみよう。
その傍観者が見ていた、その世界だけを書いてみよう。
その中で一番目立つ人を主人公に据えよう。
主人公は自分ではなく、最も目立つ他人の、
行動(や感情)の記録と考えよう。
そうすれば、傍観者は世界からいなくなる。
観客が傍観者になれる。
傍観者である観客が、また傍観者を見て、その人が見ている世界を見るから詰まらない。
間の傍観者は、切るべきだ。
傍観者である観客を、直接世界に触れさせよう。
その世界の、最も目立つ人を、主人公と呼ぶだけだ。
主人公属性とか正義とか関係ない。
目立つ人が、主人公だ。
スターウォーズは、ルークスカイウォーカーよりも、
ダース・ベイダーが目立っているので、
ダース・ベイダーを主人公としてもよい。
(事実、6エピソード全ての主人公である)
ルークは行動はするけど、目立っていないと僕は考える。
だからより目立つハンソロのほうが人気が出るのだ。
「自分を主人公にしない」なら、
「脇役を自分にする」のはセーフだ。
例えば、僕の書いている「てんぐ探偵」では、
脇役ネムカケは、多分に僕自身であったりする。
人形浄瑠璃は好きではないけど。
そして、ネムカケはやはり結果的には傍観者になっている。
事件を脇から見ている脇役は、あなたでもよい。
見ている目立つ人を、主人公にすればよいのだ。
シャーロックホームズシリーズでは、
実質主人公はホームズだ。
だが、ワトソン医師の記録という体である。
つまり、作者コナン・ドイルは、ワトソンだ。
マラソン漫画「奈緒子」でも、語り手の奈緒子が傍観者の作者で、
マラソンランナーのほうが主人公だった。
これらに共通するのは、
主人公を見ているお目付け役がいて、それが作者=傍観者という構造だ。
主人公は他人だ。
だからこそ、活躍して充実した経験をするのである。
我々観客はそれを傍観し、感情移入するのだ。
傍観者は、傍観者を目撃したくて劇場に来るのではない。
主人公を活躍させ、行動させるのが難しいと感じたら、
あなた自身が主人公になっている可能性を疑おう。
誰か他人のなんとかさんの話を見ている感覚ではなく、
俺自身をそこに立たせている感覚ならば、
あなたは自分と他人を混同している、精神的病を治療するべきである。
2015年04月29日
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