主人公が他人であること、動機、
変化によるテーマの暗示、ログライン、
それらをひとつにまとめるタイトル(仮)、
オリジナリティー。
おおむね、作品に必要なものは揃ってきました。
三幕構成とプロットの整理をしてみましょう。
結局構成やプロットというのは、
これらを「どういう一次元で表現するか」なのです。
大雑把に三幕を考えます。
一幕:二人が出会い、家庭教師に
二幕:勉強と喧嘩を教えあう
三幕:アキラとの対決
僕が元原稿で変だなあと思っているのは、
「半年間の休職」です。
ヤクザに脅されて、ただ家庭教師だけをするのは変ではないか?
その間の給料は出ないし、結局15万のプラマイで、
半年間タダ働きだった訳です。
ヤクザに食わしてもらったかも知れないけど、
家には帰ってたとすると、家賃光熱費は自腹。
車をぶつけたとはいえ、脅されていたとはいえ、
理不尽極まりない気がします。
つまり公男にとっては地獄にすぎない。
公男の動機は?
気弱の克服、いじめの解決のはず。
最低でも「ケンカを習う」動機がない限り、
脅されての半年間の地獄が、
二幕にはなりえません。
何故なら、積極的行動ではなく、消極的行動になるからです。
大岡式三幕構成の名前を思い出しましょう。
問題/アイデアと実行/変化
でした。
「問題」とは、克服すべき気弱と、いじめです。
「アイデアと実行」が、元にはないのです。
これを僕は「ヤクザにケンカを習う(その代わり家庭教師をする)」
というものに書き直そうとしています。
そうしないと、受動的な期間が、
積極的な期間にならないからです。
(元原稿では、パンチをかわせるけど攻撃を習っていない。
頭突きだって思い切りの練習や角度があるし。
習うなら攻撃を習うのが一番面白いところのはず)
二幕を「アイデアと実行」と名付けたのは、
このような消極的行動(地獄に居続けるだけのつまらなさ、不自然さ)を、
戒めるためにあるのです。
「アイデア」が肝心で、ただの実行ではオリジナリティーがありません。
元の原稿にはあったけど、モンタージュで誤魔化されていたもの、
「ヤクザに勉強を教える代わりにケンカを習う」が、
そのアイデアになります。
だってここ面白そうだから。
定食屋で二人で話したり、合格発表よりも、面白そうだから。
ということで、「半年間の休職」をやめます。
舞台を、高二の夏休み前後に変更します。
虎に教えるのを夏休みにして、
明けて九月、アキラと対決することになるのです。
ここで一発勝負にすると嘘臭いので、
2ラウンド制にします。
アキラが殴って公男は説得に失敗する。
お前がいじめをするのは、勉強が分からなくて暇だからだと。
受験勉強じゃない、勉強が面白いことを教えてやる、
と言っても信用されず、殴られて終わり。
一端どん底に落とします。ここから這い上がるのが、クライマックスへ繋がります。
虎に、ようやく防御を習う。(ここで一週間休む)
もう一回アキラに会いに行くのが、
クライマックスになる。
立会人が虎。ここまでが二幕後半。
さて、大分お話っぽくなってきましたね。
三幕構成の大ターニングポイントを考えます。
第一ターニングポイント:
勉強を教えるから、交換条件でケンカを教えてくれと言う
第二ターニングポイント:
一回ボコられた顔の腫れが引き、防御を習い、
虎に立会人を頼む
なんとなく盛り上がって来ました。
ここで、全く別の話をします。
学園ものは、イベントが沢山あるので、
そのイベントをクリアしてるだけで、
話が進んでいるような錯覚があります。
だから下手くそと上手なストーリーテリングを、
パッと見では見分けられません。
元原稿の、冬になり、大学に合格し、卒業式、
という流れは、ドラマチックに一見見えますが、
それは「いじめの解決」という根本が進んでいないので、
「形だけのドラマチック」です。
同じことはラブストーリーにも言えます。
告白、手を繋ぐ、初キス、初セックス、初喧嘩、
初変なセックス、妊娠、プロポーズ、結婚式、出産
あたりのどれかのイベントを組み合わせるだけで、
一見ドラマチックなストーリーが出来ている錯覚をつくることが出来ます。
(だから下手くそな少年マンガより、
下手くそな少女マンガのほうが、見れるものになりやすい。
妊娠、流産などをすればいいから。
これは大映テレビや昼ドラにも通ずるやり方。
ついでに、韓流もね)
それは、外的な派手さに過ぎません。
そこでそのイベント「以外」の、何が起こっているかが、ストーリーです。
ビートの記事を思い出しましょう。
電車の切符を買うビートを描くだけで、
「出会って一目惚れする」という例を書きました。
切符を買う、がイベントに当たります。
つまり、結婚式や文化祭や卒業式は、
ビートに過ぎないのです。
そのビートで、別の何が行われるかが、ストーリーなのです。
例えば元原稿では、
合格発表では、「合格発表」というストーリーしか起こっていません。
合格発表というイベント、ビートで、
合格発表「以外」のことが起こるのが、合格発表ビートを利用する、
ということです。
例えば虎が「あいつがそのいじめっ子か!」
と喧嘩をふっかけにいき、合格発表をめちゃめちゃにする、
などの、「ビート以外のストーリー」こそ、
ストーリーなのです。
卒業式もしかり。
虎の乱入は卒業式でやるべきでした。
卒業式のシーンは、金がかかるわりに、
「うまく言えない」というシーンでしかない。
じゃあ教室の最後のHRでもいいんじゃね?
となり、それじゃ絵がショボくなる、と反発するでしょう。
しかし、ストーリーの規模はHRレベルです。
それを卒業式の絵を利用することで、「盛っている」のです。
これを「盛っている」と見抜くことが、
ほとんどの人には難しいから、
学園ものやラブストーリーは、
大量生産されやすいのです。
なんかドラマチックなものを見たなあ、と、
見た目の派手さに騙されるのです。
ペプシ桃太郎は、
「敵が来て、仲間を集めて、本拠地に向かう」
というビートを、派手な絵で描き、そのままのストーリーしか描いていません。
(唯一、雉が羽を開くところだけ記憶に残るのは、
雉と出会うというビート「以外」のストーリーを感じるからです)
殆どの人は、盛られた絵に騙されました。
しかしその絵は、テーマ「自分より強いやつを倒せ」というものを、
暗示して初めてストーリーになるはずです。
それが0だからこそ、僕はここまで怒っているのです。
恐らく、それを確信犯として、
どこまで盛れるかを追及したところに、僕は怒っているのです。
同じことはポカリのロックユーにも言えます。
皆が歌うことと、走ることと、水が吹き出すことと、
「わたしが変わる」というテーマはどれもがバラバラです。
ストーリーは解体されてしまったのです。
派手な絵で盛り、派手な音楽を流し、気持ちよく繋げば、
なんだこりゃと、人目は引きます。
いいね!も再生回数も稼げるでしょう。
しかし心の奥深くには全く届きません。
ショウにすぎず、ストーリーではないからです。
学園ものやラブストーリーのイベントをそのまま描くことは、
これと同じ愚を犯す可能性があります。
もしあなたが、卒業式を描写したり、結婚式を描写したりするのが楽しく、
ストーリーがそのまま進行してる気になるとしたら、
それは「イベントにストーリーを乗っ取られている」に過ぎません。
そのイベントで、そのイベント以外の何が起こっているかが、
ストーリーです。
この勘違いの顕著な例を見るため、
「犬と私の10の約束」という糞映画を、最後まで我慢して見ることをオススメします。
とくにほらさんは見てください。
イベントを追うことは、ストーリーではないのだと。
これは、普段から僕が言っている、
モチーフとテーマの関係と同じです。
大学合格発表や卒業式や、妊娠や流産や、仲間を集めるや、
ロックユーを校長や皆が歌うことは、
モチーフです。
それを使ってどんなことを暗示しているかが、テーマであり、
ストーリーなのです。
たとえば、一般に殴ることは暴力ですが、
それはモチーフの意味でしかありません。
これをたとえば「愛してる」の意味で表現できる文脈を作り得たとき、
殴ることが愛に変わるのです。
そこに、ストーリーが存在するのです。
(「女の子ものがたり」のクライマックスは、このように出来ています。
ここだけ凄くいいです。あとは正直、糞映画です)
だから馬鹿にはストーリーは書けないし、読めません。
見たまんまの意味しか、理解できないからです。
(国語の客観テストは馬鹿製造器であることは既に議論した)
ということで、
危険な大学合格発表、卒業式、グラウンドで全員が見てる中、
などという「盛られた」イベントを全削除します。
何故なら、それを必要とせず、ストーリーは出来上がったからです。
クライマックスのアキラとの対決は、
校舎裏や川原や廃工場で十分でしょう。誰も見てなくていい。
アキラと公男の心の中で納得が行くことが大事だからです。
さて、クライマックスに至るのはこれだけの準備で足りるでしょうか。
再び、テーマへと戻ります。
2015年05月03日
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