更に続けて。
主人公プロテクトとよく揶揄されるのは、
主人公は映画の中で絶対死なないことだ。
主人公補正とは漫画で言われる、
何故だか最強の能力を持つことである。
それだけだと、ホントに詰まらない。
主人公は、それと引き換えに何かがあるから、主人公なのだ。
それは何か。
心の振れ幅だ、と僕は思う。
ボトムポイントからハッピーエンドのカタルシスへの駆け上がり、
カタルシスの前提となる内的問題。
物語において、その振れ幅が最も大きいからこそ、
主人公なのだと僕は考える。
だから、感情移入の対象になるのだ。
そもそも、簡単に死ぬのは詰まらない。
ギリギリのギリギリのギリギリまで追い込まれるから、面白いのだ。
どうせプロテクトかかって、死なないんでしょ?
と思われたとしても、
じゃこの絶体絶命をどうやって切り抜けるんだ?
と思わせるべきだ。
(ここで他人の力を借りず、自力で解決するのがヒーローだ。
力ではなく、知恵と勇気が望ましい。
何故なら、それは我々観客にも備わるものだからだ)
主人公は、簡単に死なない代わりに、
それよりもキツイ、絶体絶命の死からの大逆転をしなければならないのだ。
これが、肉体的能力や他人の協力だと詰まらない。
主人公の内面の、勇気や、内的克服で見せることが望ましい。
つまり、主人公とは、
主人公プロテクトや主人公補正と引き換えに、
最も怖い目に遭うことになるのである。
そして、その怖さを、たった一人で、知恵と勇気で、
乗りきらなくてはならないのだ。
前記事のヒーローから。
トムクルーズは、アイスマンと呼吸を合わせる。
最初は上手くいかなくても、一番嫌な相手でも。
小次郎は、風林火山と会話し、凝り固まるのではなく、
自在な風のようになることを会得することで。
ロッキーは、一人走り続けることで。
ルパンは、巧みな作戦をし、テレビカメラを地下に誘導する狂言で。
ヒューグラントは、たった一人で彼女に会いに行く勇気。
この一番キツイ部分を乗り越えるから、
主人公なのだ。
主人公が肉体的に死ぬかどうかハラハラするのではない。
主人公が、内面的に死ぬかどうかで、我々はハラハラするのである。
それが映画だ。
そして、主人公が見事内面の一番の危機を、
上手く乗り越えるから、我々は喝采を惜しまない。
それが映画だ。
肉体的に最強とか、そんなものはどうでもいいのだ。
(それを最も勘違いしたうんこ中のうんこドラマ、
トヨタマークXと佐藤浩市主役の「サムライコード」、
どこかに転がってねえかなあ)
肉体的に最強かどうかなんて、どうでもいいのだ。
内面的に最強になることが、映画という物語なのだ。
それを、内面の描写でなく、
外からカメラで撮る、三人称形で描く縛りが、
映画という物語なのだ。
カタルシスとは、ここに起こるのである。
主人公プロテクトとか、主人公補正とか揶揄されるのは、
主人公に相応しい、内面の危機とその克服が、
何一つ描かれていないことへの、
それが満足のいかないレベルであることの、
嘲笑だろう。
(残念ながら車田漫画は、この傾向が強い。
聖闘士星矢の星矢、風魔の小次郎の小次郎。
高嶺竜児はやや異なる。
そして残念ながら、ジャンプ漫画はこの傾向が強い。
僕は90年代後半からジャンプを見限ったのは、それが理由だ)
ここまで書いておきながら、
脚本添削のハードルを上げてしまったことに気づく。
がんばります。
2015年05月04日
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