2015年05月04日

主人公補正、主人公プロテクト

更に続けて。
主人公プロテクトとよく揶揄されるのは、
主人公は映画の中で絶対死なないことだ。

主人公補正とは漫画で言われる、
何故だか最強の能力を持つことである。

それだけだと、ホントに詰まらない。
主人公は、それと引き換えに何かがあるから、主人公なのだ。
それは何か。


心の振れ幅だ、と僕は思う。

ボトムポイントからハッピーエンドのカタルシスへの駆け上がり、
カタルシスの前提となる内的問題。

物語において、その振れ幅が最も大きいからこそ、
主人公なのだと僕は考える。
だから、感情移入の対象になるのだ。

そもそも、簡単に死ぬのは詰まらない。
ギリギリのギリギリのギリギリまで追い込まれるから、面白いのだ。
どうせプロテクトかかって、死なないんでしょ?
と思われたとしても、
じゃこの絶体絶命をどうやって切り抜けるんだ?
と思わせるべきだ。
(ここで他人の力を借りず、自力で解決するのがヒーローだ。
力ではなく、知恵と勇気が望ましい。
何故なら、それは我々観客にも備わるものだからだ)

主人公は、簡単に死なない代わりに、
それよりもキツイ、絶体絶命の死からの大逆転をしなければならないのだ。
これが、肉体的能力や他人の協力だと詰まらない。
主人公の内面の、勇気や、内的克服で見せることが望ましい。

つまり、主人公とは、
主人公プロテクトや主人公補正と引き換えに、
最も怖い目に遭うことになるのである。
そして、その怖さを、たった一人で、知恵と勇気で、
乗りきらなくてはならないのだ。


前記事のヒーローから。

トムクルーズは、アイスマンと呼吸を合わせる。
最初は上手くいかなくても、一番嫌な相手でも。

小次郎は、風林火山と会話し、凝り固まるのではなく、
自在な風のようになることを会得することで。

ロッキーは、一人走り続けることで。

ルパンは、巧みな作戦をし、テレビカメラを地下に誘導する狂言で。

ヒューグラントは、たった一人で彼女に会いに行く勇気。


この一番キツイ部分を乗り越えるから、
主人公なのだ。

主人公が肉体的に死ぬかどうかハラハラするのではない。
主人公が、内面的に死ぬかどうかで、我々はハラハラするのである。
それが映画だ。
そして、主人公が見事内面の一番の危機を、
上手く乗り越えるから、我々は喝采を惜しまない。
それが映画だ。


肉体的に最強とか、そんなものはどうでもいいのだ。
(それを最も勘違いしたうんこ中のうんこドラマ、
トヨタマークXと佐藤浩市主役の「サムライコード」、
どこかに転がってねえかなあ)
肉体的に最強かどうかなんて、どうでもいいのだ。

内面的に最強になることが、映画という物語なのだ。
それを、内面の描写でなく、
外からカメラで撮る、三人称形で描く縛りが、
映画という物語なのだ。

カタルシスとは、ここに起こるのである。



主人公プロテクトとか、主人公補正とか揶揄されるのは、
主人公に相応しい、内面の危機とその克服が、
何一つ描かれていないことへの、
それが満足のいかないレベルであることの、
嘲笑だろう。
(残念ながら車田漫画は、この傾向が強い。
聖闘士星矢の星矢、風魔の小次郎の小次郎。
高嶺竜児はやや異なる。
そして残念ながら、ジャンプ漫画はこの傾向が強い。
僕は90年代後半からジャンプを見限ったのは、それが理由だ)


ここまで書いておきながら、
脚本添削のハードルを上げてしまったことに気づく。
がんばります。
posted by おおおかとしひこ at 13:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック