2015年05月06日

脚本添削2015その11:練ること

練るとはどういうことでしょう。
一言で表すのは難しい。

僕は、
あらゆる見地から見て、
完璧なる「ひとつ」をつくること、
と言ってみましょう。



ある原稿やアイデアがあって、
それを別の見地から見ても変じゃないかを検討することは、
とても大事なことです。

簡単な検討は、
「全ての登場人物から見たこの話」を考えてみることです。
どの人物から見てもおかしくないか、をチェックするのです。

元原稿は、虎(ガク)の目から見ると変です。
そこまで大学合格をしたいようには見えないからです。
にもかかわらず、半年も拘束する。
ヤクザは滅茶苦茶だから、とはいえ、なんだかモヤモヤします。

あるいは、いじめられっ子ノブの目から見ても変です。
公男のいない半年間いじめられて、
しかもその後どうなったか分かりません。
いじめのせいで大学受験出来なかったかも知れないし、
やっぱり助けてくれなかったんだ、と信用を失った先生が、
今さら卒業式に頭突きでアキラを倒しても、
失ったものが大きい気がするからです。


また、はじめから終わりまで以外の時間軸から見るのも、
検討になります。

元原稿では、主人公公男が登場する以前の話、
すなわちバックストーリーが不在でした。
まるで今日はじめていじめに気づいたかのような描写です。
放課後ノブに声をかけますが、
はじめて声をかけたのでしょうか?
にしては変だし、ちょいちょい声をかけてるのなら余計変です。

同じく、
アキラのバックストーリーもよくわからず、
虎(ガク)のバックストーリーもよくわかりません。

ストーリーが終わったあとも、よく分かりません。
虎(ガク)は、大学卒業後どういうヤクザになるのか?
公男は、卒業生に暴力を振るった(しかも衆人環視で)ことは、
罪に問われないのか?
そのへんがとてもモヤモヤします。

恐らく、最初に思いついたアイデアが、
「頭突き一発で全てを吹っ飛ばす」だったと考えられます。
そこで爆発するように組まれているからです。

しかし、練りが足りないのです。
「あらゆる角度から見ても変じゃないもの」に、
なってないのです。

やったー!思いついたー!の有頂天で止まっているのです。

ほんとにそうか?
常にその気持ちで、あらゆる角度から検討するべきです。


勿論、各登場人物、各時間からの検討だけではなく、
色んな人がこれを見るだろうことを想像するのもいいことです。

教師はどう見るか?
ヤクザはどう見るか?
いじめられっ子はどう見るか?
いじめっ子はどう見るか?
男はどう見るか?
女はどう見るか?
子供はどう見るか?
大人はどう見るか?
昭和の人はどう見るか?
ゆとり世代はどう見るか?
リアリティーの検討、変じゃないかの検討。

少しでも変なら、ちゃんと直すのがよいです。



さて。
下手くそな人の直しは、
各個撃破の直しになります。
A、B、Cと物言いが出たとしたら、
Aを直し、Bを直し、Cを直します。
すると、直したもの同士が矛盾していたり、
元のシンプルな物語が複雑になったりします。
愚者の改訂です。

あらゆる検討の結果、直しが発生したら、
ABCも何もかも、もう一度全部を溶解させて、
全部のツッコミが入らない、
シンプルなひとつを一から作るのがベストだと、僕は思っています。


それに、大岡式白紙術はとても便利なのです。
(合理的な説明が難しいのですが、
夢の時に行われている、記憶の整理統合に近いことが行われている、
と考えています)



さて。
何故原作つきの実写化は、うまくいかないのか?
練りが足りないからです。


ただでさえ、尺を大幅に縮めなければいけない。
しかも、本質を失ってはならない。
その練りが、足りないからです。
あっちを直してこっちを直す、愚者の改訂をしているのです。

僕は今でも「いけちゃんとぼく」の脚本改訂の失敗を悔やんでいて、
それは愚者の改訂をしていたからだ、と最近ようやく分かってきました。

多分、ある段階で、一度白紙から書き直せば、
もっとよいものが出来ただろうことは、今なら想像できます。
当時の僕に、48000字を一から書き直す勇気がなかったのです。
48000字を埋めるのは、当時の僕にとっては途方もない量で、
それを恐れるべきではなかったのです。
量を書け、という僕の教訓は、
48000字ぐらいどってことないぐらい、量を書くことに慣れろ、ということが最終目標です。


恐らく、殆どの原作つきの実写化の脚本では、
愚者の改訂が延々と行われているだけだと思います。
そうでなければ、あんな詰まらない作品群が生まれる訳がありません。

逆に、実写「風魔の小次郎」が傑作なのは、
殆ど第一稿が通ったからだと思います。
(何度か書いてますが、僕は原作を見ずに、 第一話の脚本を書き上げました。
だから程よく整理され、しかも風魔のエッセンスのある脚本になったのです)




だから、
今回の脚本添削スペシャルでは、
練りの詳細を見せたつもりです。
ついでに、資料も貼り付けておきましょう。


まず「ナプキンライティングメソッド」と僕が名づけたやり方です。
飯屋の紙ナプキンを一枚取り、その狭い範囲の中に、
なるべく「本質的なことだけ」を書くようにするのです。
狭いから、言葉を選ぶ必要があります。
たいてい、最初に書いた一言がその本質です。

二回やってみました。それがこれです。(またコンビニスキャン)
ナプキンメソッド.pdf
「一番大事なところを、一番大事なところにぶつける」
「頭突き」
あたりが本質的だ、ということが、これで客観視可能です。

つまり、
あらゆる見地から見て、
完璧なる「ひとつ」をつくること、
をここでもうやりはじめているということです。

これを踏まえて、大岡式白紙術。
何も見ずに、一からプロットを書いたのがこちら。
プロット.pdf
相変わらず汚い字ですいません。他人に見せる用の字ではなく、
なるべく速記で書ける字で書いてます。
タイピングより、フリック入力より、圧倒的に速いです。

で、これまた「一次元の、ひとつのもの」になったことを確認し、
執筆をはじめます。

これまた白紙術。何も見ずに書いていきます。
もう何もかも、「体に入っている」レベルです。

何も見ないと、なんとなく今何分あたり、という腹時計が可能です。
で、あと何分かなあと思いながら、字数を調整できるものです。
これは完全に慣れでしょうね。
脚本下書き.pdf

とにかく一気書き。
「連続して書くこと」という、観客目線が一番保てるやり方です。
二幕前半部〜ミッドポイントは、
プロット時と情報を与える順番が異なっています。
そのほうが前からの流れで自然だ、と無意識に修正したからです。
この無意識を使うために、この白紙術があるんです。


さらにこれを文字うちし、
書き忘れたこと(いじめっ子に謝る)などを追加してゆくのが僕のやり方です。


この量なら、目つぶってもできる。
問題は、二時間、48000字の高い峰。



今回は、昨年よりもレベルが高いような気がしました。
中級者がどうやってプロへの階段を登るのか、
その一部が見えるように、書いてみたつもりです。

面白いとはどういうことか。

一言では表せませんが、
それに向き合うことが具体的にはどういうことかを、
少し示せたような気がします。

ということで、以下通常運転に戻ります。
御拝読ありがとうございました。
ほらさん、めげずにどんどん書いて下さい。
posted by おおおかとしひこ at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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