漫画や小説の再現ドラマが実写化だ、と思うから、
「最高の出来でも再現ドラマ」が関の山なのだ。
人のやることには出来不出来があるから、
その方針である限り減点ポイントが生じて、
必ず原作以下になる。
減点0の完璧なものだとしても、原作の完璧な再現に過ぎない。
それ見るの?
それが目的なの?
僕は違うと考える。
「原作と同じ(多少違う)材料を使いながら、
原作と調理法は違うものの、
同じ料理をつくること」が、
正しい実写化のあり方ではないか。
「原作と寸分違わぬ材料を使って、
原作と同じ調理法でつくって、
減点方式の再現をすること」ではなく。
実写化であろうとなかろうと、
別のメディアへ物語を変換する、というのはそういうことじゃないかなあ、
と思う。
あとは双方のメディアに、どれだけ詳しいかで決まるという。
ただ、これは難しいのだ。
頭のよさがいるのだ。
たとえば。
花束とか指輪とか言葉とか、
世間での分かりやすいパターンを使わずに、
「愛してる」ことを伝えるのには、とても難しいことである。
たとえば風魔10話、
「あと、強い善人だってこと」で告白することを思いつくことは、難易度が高い。
この言葉だけでは分からないが、この話を見た人全員は、
この言葉が愛の告白であることは分かる。
言葉は違うが、意味は同じ。
これが正しいメディアの変換である。
映画「恋愛小説家」にも似たシーンがある。
(というかこれは僕のお手本なのだが)
偏屈で変人で嫌われものの主人公の作家(ジャックニコルソン)が、
妙齢のウエイトレスと恋をする話だ。
「あなたと出会ってから、正しい男になろうと思った」と、
愛の告白をする名シーンがある。
こういうことなのだ。
表面に現れることはまるで違うのだが、
意味を一致させること。
これが正しいメディアの変換だ。
この場合は言葉と思いだ。
そしてこれは、当然のことだが、
難易度が高いのだ。
愛してるという意味を、
「強い善人だ」(あなたの理想にもがき、そこに到達しようとしている姿を愛します)
「正しい男になろうと思った」(悪い男と思われていてはあなたといる資格がない)
という言葉に変換して伝えることは、
難易度が高いのだ。
「好きです、愛してます」とそのまんま言うほうが、
よっぽど簡単なのだ。
実写化もこれと同じだ。
表面の再現ドラマが、再現度が高い高くないとやってるほうが、
簡単なのだ。
人は易きに流れる。
一人が高みを目指しても、集団が易きに流れれば、
その集団の行く末が作品の行く末になる。
風魔がたまたまうまくいったのは、
僕が風魔に詳しく、
そして実写(映画、ドラマ)の才能があり、
形は違うがこういうことで風魔の意味を表現できるということが出来て、
なおかつ集団が僕を尊重してやりたいことをやらせてもらったからだ。
この三つが揃わないと、
風魔の実写化は失敗していたと思う。
原作の深い理解、変換の才能、集団の意思決定。
再現ドラマにしかならないお粗末な実写化は、
このどれも足りないのではないだろうか。
つまり、
原作の理解も浅く、
変換の才能もなく、
集団の意思決定がバラバラ
(この役者を売り出したいとか、この役者合わせで内容を変えるとか、
オリジナル要素を認めて欲しいとか)だったり、
するということ。
だから、見た目の再現度合いでしか競えないのではないのか?
難しい議論をしてみよう。
何のために実写化をするのだろう。
漫画やアニメや小説、
そのジャンルでしか知らない、
マイナーだけれども素晴らしい作品を、
より広い層に向けて味わって貰うためだ、
と僕は考えている。
しかしプロデューサーサイドはそうでなかったりする。
何度か述べているが、
製作委員会とは、複数の団体の集合だ。
映画会社が製作資金を自社調達出来ないから、
外部の企業と組み、
資金提供と回収をする仕組みが製作委員会である。
外部の企業とは商品を売りたいスポンサーだが、
最近は芸能事務所や音楽事務所がスポンサーに入ることが多い。
つまり、彼らの商品、俳優やバンドを、
売り出すためということが目的になる。
それが原作と言う「演目」を選ぶだけだ。
オリジナルをやれや、と思うのだが、
人気作品の実写化は、資金が集まりやすい。
このようなおかしな構造があることを知らない人が、
資金を提供するからだ。
金(プロジェクト)に群がる、公共工事だ。
正しいメディアの変換、という議論と、
あまりにも遠い所で話が進んでいるのだ。
だから実写化は、バカでも分かる再現度合いで競うのである。
で、マックス減点0に到達しない。
上手な実写化に、あまり当たったことがない。
スパイダーマン(アメイジング除く)とキックアス並の、
実写化を見たいものである。
まあ今の構造じゃ無理だよね。
その意味で、僕は偶然の針の穴を通したのだ。
残念ながら、見た人が少ないのが欠点だが。
実写化は再現ドラマではない。
別のメディアへ上手く変換することだ。
そしてその度合いは数値化出来ないから、
バカは数字(視聴率、興行成績、売上)でしか評価しないのだ。
数字が客観的指標だと思う人はバカである。
世の中が数学や物理に従うのは、正規化された条件下限定だ
(そして現実にはそんなことは滅多にない)、と思う人が賢く現実を理解している。
同じ材料を使いながら、
このメディア内で原作ごえを果たすことなんて、
夢の夢になってしまう。
しかし正しい変換を理解していれば、
原作ごえはむしろ条件ですらあると言える。
2015年06月10日
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