「切り返し」とは、
例えばテニスの試合を想像してほしい。
選手Aと選手Bのアップのカットがあり、
全体をとらえた引き絵(中継では俯瞰目が多い)がある。
これがテニスを表現する、最小限のカット割だ。
この時、AとBのアップ(サイズは顔一杯でも全身近くでもいい)
を交互に繰り返すことを、
「切り返し」という。
(ハリウッドではカットバックというが、
シーンAとBの同時進行もカットバックというので、
同シーン内のカットバックで、AのBアップ限定を切り返しだと思うとよい。
ちなみに切り返しは日本映画の用語だが、
人物と人物以外でも、切り返しと言ったりする。
人物と人物の切り返しに見立てる為だ)
これが何故映画にとって本質的なのか。
それは、脚本と密接な関係があるのだ。
1. 物語とは、自分と他人の関係である
2. それを、三人称表現する為の手段が切り返し
の二つの理由があるだろう。
ひとつずつ。
1. 物語とは、自分と他人の関係である
自分一人の物語は存在しない。
たとえ一人芝居での場面でも、
他人との関係と関係する場面のみが映画では使われる。
(近年、ネットでしか他人と繋がらず、
物理的に他人と関わらない人が増えている。
これが映画的物語のパワー低下に繋がっていると、僕は考えている。
映画とは、リアルの人間関係のプレッシャーや喜びやその他を、
そもそも描く用に発達したものだ)
全ての文学が、自分と他人の関係であるとは限らない。
他人と他人の関係を描き続け、「私」はその記録者に徹底する形式もある。
(「落下する夕方テンプレ」とここでは呼んでいる。過去記事参照)
しかし映画になるのは、必ず自分と他人の関係を主に描いたものだ。
自分を主人公という。
(度々書いているが、主人公はあなた自身ではなく、
別の他人であることが望ましい。失敗の可能性を加味すれば、必須条件だ)
従って、自分は映画にはいない。
いるのは他人と他人の関係だ。
この関係性が、事件により変化することが物語だ。
働きかけたり、働きかけられたり、偶然があったり、
出会ったり別れたり、内部が変化することが、
物語である。
複数間の関係性の変化もあるだろう。
しかし人間関係の基本は、一対一だ。
(一対集団、集団対集団もある。単位は個人だ)
2. それを、三人称表現する為の手段が切り返し
人と人が関係性を結ぶとき、
体の正面を向けあうのが基本である。
しかしこれをカメラで撮ると、常に横顔しか撮れないことになる。
正面の顔が見たい。
そこでカットを割るのだ。
AとBのアップを撮り、適宜切り替える。
これを切り返しという。
切り返しは、台詞を言っている間その人を写せばいい、
というものではない。
黙っている時間、相手の台詞を聞いている時間の方が、
言っていることよりも関係性にとって重要ならば、
そちらを写すべきだ。
編集とは、同時進行するAとBの気持ちを、
ひとつの時間軸にうまく切り替えながら並べて一連にすることを言う。
つまり、
映画的物語とは、
人と人の間でなされる何かを、
三人称表現で見せるものであり、
人と人を同時に見るには、切り返ししかないのである。
切り返しは、基本、対立や反復だと言われる。
つまり、人と人は最初は必ず対立する。
反復や対立を繰り返し、
最後は同意か別れを選ぶ。
同意ならば切り返さず引き絵でワンショットにおさまり(同調)、
別れならどちらかが画面から消えるだろう。
引き絵と両者のアップ、この3カットが映画に本質的なのは、
映画的物語と関係しているのだ。
この基本3カットで、カット割は可能だ。
それ以外はおかずに過ぎない。
勿論、複数の人間の複数の関係性が描かれていれば、
それぞれをAとBとして、カット割をすればいいだけのことだ。
カット割とは、それだけのことだ。
映画的物語の、映画的表現なのだ。
内容と形式は、卵と鶏のように、どちらが先だった訳でもないだろう。
(小説、演劇という先行する形式はあったにせよ、
それらは、これほど自分と他人の関係にフォーカスしていなかったかもだ)
映画的物語こそが、切り返しを本質的にした。
切り返しこそが、映画的物語を成立させた。
これらを分かって脚本のことを考えると、
間違いや無駄を避けられるかも知れないし、
初心者は余計ややこしくなるかも知れない。
2015年05月14日
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貴方が挙げている単調な切り返しで何が表現できるのでしょうか?
会話がもたらす人物間の関係の変化や感情表現を差し置いて、ただ「これは会話である」という自明の理を示しているに過ぎないでしょう。
一度音声を消して切り返しシーンをご覧なさい、そこで何が起こっているかは、役者の表情からしか得られない。カメラは口を閉ざしたまま、決して何も語ろうとしないのです。
クレショフのモンタージュ実験をご存知でしょうか。
極論すると、役者は無表情でよいのです。
能面に我々は文脈を重ねて、勝手に思いを想像する力を持っています。
人形劇が成立する所以です。
つまり映画は会話です。
誰かと誰かが何かを話さないと(勿論非言語による意思伝達でもよい)、始まらないし、進行しないし、終わらないと僕は考えています。
勿論そのときにどこを写すか、どこを写さないかは、監督の裁量です。
ここは演出を語る場ではなく脚本論を語る場なので、演出にエネルギーを渡すために何を書くべきかを議論しています。
極端に言えば、ラジオドラマを書けるようになれれば、あとは監督がやるのです。
これは真理ですね。
ここは脚本についての、脚本家目線のブログなのですね。私は脚本を軽視しがちなので、ついでに勉強させて頂きます。