2015年05月14日

何故切り返しが本質的なのか?2

カット割の基本は他にもある。
引き絵、人のアップと切り返しが基本だとすると、
他の寄りだ。
手元のアップ、その人が見たもののアップなどだ。

これが何故脚本と卵と鶏の関係になっているのだろう。


人間の手元は、何かを作ったり、
操作することを表すのによく使う。
つまり、アクションのひとつである。

メモを取る、判子を押す、指輪をはめる、
車を運転する、死刑執行のボタンを押す、
など、アクションを示すことが出来る。

つまり、人と人の関係を描く、
切り返しの代わりなのだ。
Aの手元のアクションからBに切り返せば、
AとBのアップの切り返しと、同じ意味になるのだ。
台詞で言わずにアクションで示しただけだ。

また、手はその人の気持ちを表すことも出来る。
顔は笑っているが拳を強く握りプルプル震えている(秘めた怒り)、
とても丁寧に相手の宝物を扱う手(愛情)、
手を握ろうとしたらその手を外す(拒否や遠慮)、
などを容易に想像できるだろう。
つまり手は表情の代わりである。
優しく女の体を撫でる手と、目をつぶる女の表情を切り返すだけで、
それは愛情に満ちたセックスを表現出来るというものだ。

あるいは、非難する女と、プルプル震える男の拳は、
顔のアップの切り返しよりも説得力があるものだ。

このように、手元のアップは、時に顔のアップの切り返しよりも雄弁であることが多い。


見ているもののアップと、それを見ている人の切り返しも頻出である。
時計を見る顔→時計(時刻)のアップ、
恋する男→フェンスの向こうの(彼に気づいていない)女性、
などなどだ。


手元のアップと、見ているもののアップは、
切り返しである。
つまり、
その人と手のものの間の関係、
その人と見ているものの関係を、
そこに作り出す。
AとBだったものが、
Aとモノになるだけのことである。
モノ経由でBとの関係の表現になることもある。
指輪や離婚届、凶器の包丁や銃、キリスト教徒の十字架はその頻出だろう。


つまり、切り返しとは、
何かと何かの関係だ。
その変化を描くことが、物語だ。
posted by おおおかとしひこ at 15:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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