2015年05月15日

何故切り返しが本質的なのか?3:絡まないカットバック

これまでの議論から、
何故カットバックを多用する、
クリストファーノーラン映画が糞かを導ける。


いわゆるカッコイイカット割とは、
実は簡単なのだ。

「同時進行する複数の要素を、
例えばスローモーションでアップで撮って、
適宜切り替える、時々エフェクト入れて変化球をつける」
でよい。
音楽PVは、殆どこのカット割を適当にやるだけでかっこよくなる。
(あとはリズムとカットのタイミングを合わせるだけだ)

カッコイイ予告編もこのやり方で作ることが出来る。
複数のシチュエーションのアップを、
適宜切り替えるだけでよい。
あとは音楽のリズムに合わせる。

このやり方の完成形のひとつは、
「バッファロー66」だ。
スローモーションこそないが、
ストップモーション(静止画)がその代わりをしている。
字幕(タイトル)もその代わりをしている。
秀逸なのは黒味を使うテクニックである。

複数の要素をカットバックすることは、
一見何の関係もないものに、
何やら不思議な関係性を匂わせることが可能だ。

何故なら、これまで議論したように、
AとBの関係を示すことが切り返しだからだ。
カットバックすると、
これを自然と連想するのである。

だから、カッコイイカット割で、
複数の要素に何かしらの関係、意味がありそうに見せることが可能である。



ところが、その関係性の変化こそがドラマなのだが、
これらは関係のない要素をカットバックしているだけなので、
それぞれは影響を与え合わない。

例えばこういうPVを見たことがあるだろう。

屋上で演奏するバンド。
カッコイイセットの前で歌うボーカル。
路地裏で踊るダンサー達。

これらがリズムに合わせてカットバックする。
それぞれのアップ、引き絵、手元や足元なども撮ってある。
それらがカッコイイカット割で切り替わる。
しかしそれらは絡み合わない。
例えば路地裏のダンサーが屋上へ上がり、
屋上のバンドを落として殺さない。
例えばボーカルが路地裏にゆき、ダンサーに加わることもない。
曲が終われば、
それぞれの場所でパフォーマンスを同時に終えて終了だ。

つまり、よくあるこのカッコイイカット割は、
物語ではないのだ。

物語とは、誰かと誰かの関係を描くことだ。
そしてその変化を描くことだ。
(ダンサーがバンドを殺すことが面白い物語かどうかは、ここでは置いておく)



物語ではないこのカッコイイカット割は、
クリストファーノーランの映画で頻繁に見ることが可能だ。

例えばストーリーラインA、B、Cを、
それぞれいいタイミングで切り替える。
それぞれのストーリーライン内では何かの物語が進行しているが、
AとB、BとC、CとAが絡むことはない。
つまり先程のPVと同じだ。

つまり、これらは物語ではないのだ。



切り返しとは、物語の文法である。

ところが、物語ではないものを物語の文法で見せることも可能だ。


カッコイイカット割とは、切り返し(カットバック)を使い、
物語ではないものに、物語的な雰囲気を漂わせることを言う。


物語とそうでないものの見分け方は簡単だ。

切り返しのそれらが、
関係性を持ち、影響を与えあい、
決着がつくかどうかだ。
テニスの例に戻れば、
ボールのやり取りをするかどうかと、
決着がつくかどうかだ。

最近、ただカッコイイカット割だけで、
ちっとも物語でないものが増えた。
その真贋を見分けられるようになってほしい。
posted by おおおかとしひこ at 00:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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