これまでの議論から、
何故カットバックを多用する、
クリストファーノーラン映画が糞かを導ける。
いわゆるカッコイイカット割とは、
実は簡単なのだ。
「同時進行する複数の要素を、
例えばスローモーションでアップで撮って、
適宜切り替える、時々エフェクト入れて変化球をつける」
でよい。
音楽PVは、殆どこのカット割を適当にやるだけでかっこよくなる。
(あとはリズムとカットのタイミングを合わせるだけだ)
カッコイイ予告編もこのやり方で作ることが出来る。
複数のシチュエーションのアップを、
適宜切り替えるだけでよい。
あとは音楽のリズムに合わせる。
このやり方の完成形のひとつは、
「バッファロー66」だ。
スローモーションこそないが、
ストップモーション(静止画)がその代わりをしている。
字幕(タイトル)もその代わりをしている。
秀逸なのは黒味を使うテクニックである。
複数の要素をカットバックすることは、
一見何の関係もないものに、
何やら不思議な関係性を匂わせることが可能だ。
何故なら、これまで議論したように、
AとBの関係を示すことが切り返しだからだ。
カットバックすると、
これを自然と連想するのである。
だから、カッコイイカット割で、
複数の要素に何かしらの関係、意味がありそうに見せることが可能である。
ところが、その関係性の変化こそがドラマなのだが、
これらは関係のない要素をカットバックしているだけなので、
それぞれは影響を与え合わない。
例えばこういうPVを見たことがあるだろう。
屋上で演奏するバンド。
カッコイイセットの前で歌うボーカル。
路地裏で踊るダンサー達。
これらがリズムに合わせてカットバックする。
それぞれのアップ、引き絵、手元や足元なども撮ってある。
それらがカッコイイカット割で切り替わる。
しかしそれらは絡み合わない。
例えば路地裏のダンサーが屋上へ上がり、
屋上のバンドを落として殺さない。
例えばボーカルが路地裏にゆき、ダンサーに加わることもない。
曲が終われば、
それぞれの場所でパフォーマンスを同時に終えて終了だ。
つまり、よくあるこのカッコイイカット割は、
物語ではないのだ。
物語とは、誰かと誰かの関係を描くことだ。
そしてその変化を描くことだ。
(ダンサーがバンドを殺すことが面白い物語かどうかは、ここでは置いておく)
物語ではないこのカッコイイカット割は、
クリストファーノーランの映画で頻繁に見ることが可能だ。
例えばストーリーラインA、B、Cを、
それぞれいいタイミングで切り替える。
それぞれのストーリーライン内では何かの物語が進行しているが、
AとB、BとC、CとAが絡むことはない。
つまり先程のPVと同じだ。
つまり、これらは物語ではないのだ。
切り返しとは、物語の文法である。
ところが、物語ではないものを物語の文法で見せることも可能だ。
カッコイイカット割とは、切り返し(カットバック)を使い、
物語ではないものに、物語的な雰囲気を漂わせることを言う。
物語とそうでないものの見分け方は簡単だ。
切り返しのそれらが、
関係性を持ち、影響を与えあい、
決着がつくかどうかだ。
テニスの例に戻れば、
ボールのやり取りをするかどうかと、
決着がつくかどうかだ。
最近、ただカッコイイカット割だけで、
ちっとも物語でないものが増えた。
その真贋を見分けられるようになってほしい。
2015年05月15日
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