2015年05月15日

何故切り返しが本質的なのか?4:ワンカットの失敗

ついでに、「バードマン」の1カット演出が、
何故ストーリーを上手く語れなかったかについて、
議論してみよう。


切り返しが映画的物語の本質である。
三人称での自と他の関わり合いを、
映像で表現するには、切り返しがベストである。

例えば、
主人公と離婚した妻、
主人公と娘、
主人公と生意気な役者、
などの関係性は上手く描けていただろうか?
否だ。

どれも設定は出来た。
離婚して娘が心配で家を抵当に入れること、
信頼を失っていること、
対立点が明確なこと、
などだ。

しかしこれらは、設定をしたものの、展開することはなかった。
誰かと再婚するとか、もう一度やり直すとかの変化はなかった。
和解するとかマネージャーを辞めるとかの変化はなかった。
喧嘩はしたがその後娘を寝とったあとの話がなかった。

ここが問題なのだ。

映画とは対立と変化だ。
対立が二幕で変化が三幕だ。

対立の設定があり、
対立の本編があり(二転三転し)、
対立の決着の結果、及ぼされた変化を描くことが、
コンフリクトを中心とした物語論である。

これらが、かなりのパーツが欠けているのがバードマンだ。


これは、1カット撮影の弊害でもある。
「切り返しによって、二人を描く」ことが出来ない制限のためだ。
会話はラリーだ。
テニスの試合と同じだ。
切り返しがない場合、
観客はテニスの試合を見るように、
左右に首を振り続けなければならない。
カメラはいちいち左右に振れない。忙しすぎるからである。
(ワンシーンあたり、ラリーは何ターン続くだろう。
10ターンぐらいかな。重要なシーンなら2〜30ターンはあるのではないかな)
カメラを振れない為、
数ターンはAを、数ターンはBを写さざるを得ない。
(例えば主人公が娘の麻薬をとがめるシーンでは、
そのように撮られていた)
この為、ボールの行方、すなわち焦点の行方が、
見失われる。

会話や対立は、焦点のラリーである。
それが1カット撮影では撮影出来ないのだ。

1カット撮影で写せるのは、
二人を横から撮った引き絵(バレーボール中継)か、
二人を一人はバックショット、一人は正面から撮る(野球中継)か、
そのアングルで上に上がる(テニス中継)しか、
ないのである。
どのスポーツ中継でも、引き絵のままということはない。
必ずアップが入り、相手のアップも入る。
つまり切り返しが行われる。
引き絵のままだと、
ラリーの状況は分かっても、
選手の心境に入りにくいからである。

このような、スポーツ中継ですらやっていることを、
バードマンの演出は怠慢であった。

だから、物語のカタルシス、対立と変化がなかったのだ。



一方、では何を中心に描いたのか?
主人公の内面である。

1カット撮影が効果的だった所を思いだそう。
冒頭から舞台へゆくところ(からダメ役者を首にするところ)、
劇場を閉め出されてパンツ一丁で町をさ迷って戻るまで、
バードマンの出現する妄想の空飛ぶシーン、
などだ。
つまり、一人芝居や一人言や内面のシーンなのだ。

つまりこれはどういうことかと言うと、
「1カット撮影は、一人称である」ということなのだ。


POV映画などを思いだそう。
これは主人公になりきる映画だった。
つまりは一人称だ。
これはリアリティーを追求するためカットを割らない。
一人称ではカットを割らない。
つまり1カットだ。
(クローバーフィールドで、カットを割ったところは、
ああカットを割るんだなあ、と落胆したことを思いだそう)

1カットがカットを割るのはいつか。
寝るとき、気絶するとき、死ぬときだ。
フェードアウトを使うこともあるだろう。
(この法則に従うなら、バードマンの主人公は死んだとも言える)


映画とは三人称表現の物語形式だ。
他人が他人の前で物語をする。
だから意味が必要になる。
お前が俺の前で何かをするのなら、
それに意味があるんだろうな?
ということだ。

意味がないもの、意味そのものがつまらないものは、
他人の前でやる意味がない。
(何度も書いているが、これをテーマという)


ところが、一人称表現では、
意味がなくてもいいのだ。
他人の目線が関係なくなり、
俺が意味があると思うほど、意味があるからである。
これが他人から見てどうかは、
一人称において意味がないのだ。

バードマンにテーマがあったか?
なかった。何故か?
一人称表現だったからだ。
重要なのは俺。俺の世界。

それを何と言うか知っているだろうか。
オナニーだ。


1カット撮影、一人称表現、POV。
これらは俺の感情のオナニーだ。
それが気持ちよかった人だけ(少数)気持ちいい。

切り返し、三人称表現。
これは主人公という他人と、観客という他人のセックスだ。
お互いが気持ちよくなるように、配慮し、段取りをつくり、
上り詰め、それに意味があるようにしなければならない。


つまりバードマンは糞だ。
(こういうオナニーが好きな人は、一定数いる)
この映画がアカデミー賞?
ハリウッド映画大丈夫?

あるいは、物語そのものが、今危機なのか?
日本人がセックスレス化していくのと同様、
もうオナニーにしか興味がないのか?

そこはちょっと分からないところだけど。



切り返しとは、ラリーだ。
映画的物語とは、切り返しのことだ。
ラリーがどうやって決着がついたかが、物語だ。

バードマンはラリーも決着も曖昧だった。
1カット撮影が原因か、脚本が原因か、
それは卵と鶏の関係なので分解できないが、
結果的に一人称表現だったから、というのがその答えだろう。



(事件とその解決への焦点は描けている。
「人生をかけた舞台を成功させること」だ。
しかしその成功すら、銃で鼻を撃つという飛び道具で、
本当に舞台が面白かったかどうか、
彼の人生とは何だったかなどの、
そもそも事件解決の内面的焦点が、
うやむやにされているのである。
だからちっともカタルシスがない。
バードマン出現シーンがあれだけ派手なのに、
その派手さに見あった、物語のカタルシスがない。
それは、解決が曖昧だからだ。
舞台は成功し、内なるバードマンが消え、人間関係は修復した、
という安易なハッピーエンドにしたら、
あまりにも主観的なご都合主義に見えるからだ。
それはハッピーエンドが悪いのではなく、
それまでの物語が、
あまりにも一人称的で、三人称的な物語がなかったからなのだ)

posted by おおおかとしひこ at 10:10| Comment(3) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>>(事件とその解決への焦点は描けている。
「人生をかけた舞台を成功させること」だ。
しかしその成功すら、銃で鼻を撃つという飛び道具で、
本当に舞台が面白かったかどうか、
彼の人生とは何だったかなどの、
そもそも事件解決の内面的焦点が、
うやむやにされているのである。

舞台で拳銃自殺をして話題を作ろうとする主人公の話だと思うので、銃で鼻を撃つのは飛び道具でもないでしょう。

主人公は舞台で拳銃自殺をするつもりだった。文字通り自分の人生を賭けて最後の話題を作るつもりだった。
でも死ねなかった。手元が狂ったかビビったかで鼻を撃つにとどまった。
死ねなかったのに話題になってしまった。

そんな話だった気がしますが。
Posted by バンドマン at 2016年10月27日 00:51
バンドマン様コメントありがとうございます。

>舞台で拳銃自殺をして話題を作ろうとする主人公の話
ではないと思います。
それは後半の思いつきであり、全体を指した言葉ではないかと。
もしそうだとしたら、かなり最初の方に、
「話題作りをするには、拳銃自殺をするのがもっともよい」
という命題が示され、主人公はそれにどのように対処するのか、
というのがセンタークエスチョンになるはずです。

そのようなしっかりした構成がない、というのが批判点です。
で、1カットの一人称視点だと、客観的構成が曖昧になる、
というのが本筋です。
(勿論、一人称視点の曖昧さを描いた映画だ、
という主張は可能ですが、それは面白くなかったと感じます)

一応全体構成を考えると、
「話題作にすることに困った元売れっ子の話」かな。


同じスタッフの同工異曲に「レヴェナント」があり、
似たような批評をしている俺がいて、お前は俺かと思いました。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年10月27日 12:25
そうかもしれないですね。

失礼しました。
Posted by バンドマン at 2016年10月29日 14:52
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