世阿弥「風姿花伝」の最高奥義のひとつ。
つまり、「謎がある状態」のほうが、
「謎が解けた状態」よりも魅力的である、
という話。
僕はパンチラによく例える。
モロじゃダメ。チラリとその奥を「想像させる」から興奮する。
つまり興奮は謎そのものにはない。
「隠されている状態(それが見えそうな状態)」にある。
多くの物語では、謎を沢山利用する。
謎の素性、謎の動機、謎のポジション、
隠された能力、伏せられた理由、
機密資料、誰にも言っちゃいけないよ、
どうして微笑んだのか、
あの時のあれはまさかあれではないか、
インパクト抜群の状況、一体何故こうなったのか、
正体を暴くこと、言うことと言わないことを選ぶこと。
それは、その謎が明らかになるラスト付近まで、
その物語の魅力を輝かせる役目をする。
それは、緊急度の高い、第一の焦点になることもあるし
(殺人の動機を解明、あの子の真意を知りたい)、
通奏低音のように、いつか明かされる謎と期待されて、
第一の焦点ではなくずっと花を添えているものもある。
(ワンピースって一体何か、とか)
これは、いくつかの場合には、ハッタリとして使われる場合がある。
いかにも謎があるように見せかけることで、
ワンランク上げるテクニックと化しているかも知れない。
だから、謎が解けたらなんてことない、ということがよくある。
最初の謎めいた雰囲気が好きだったのに、
は、ネタバラシしたあとダメになる作品がいかに多いか、
ハッタリがいかに多いか、
の証拠だ。
長編漫画には、この詐欺がつきものだ。
アメリカのドラマもこれがグダって来ることが多い。
(継続して見てた奴だと、昔の「V」とか、
ちょっと前だと「プライミーバル」とか。これはイギリスか)
映画は、それが出来ないメディアである。
どんな謎もネタバレは2時間以内にされるのである。
ガッカリは、バレてしまう。
そこに注意しよう。
謎を用意するのは大変よい。
しかし謎が解かれた時にも満足するものをつくらなければ、
謎を用意する意味がない。
逆に。
謎が解かれた時のことを先に考えるのだ。
どんでん返しはこうやってつくられるのだ。
秘すれば花。
これは物語の、ラスト以外の奥義だ。
開陳してさらに花。
それが、映画としての奥義かも知れない。
2015年05月20日
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